先月3月29日に観たピナ・バウシュ ヴッパダール舞踊団の「フルムーン」(新宿文化センター)。
ピナ・バウシュの舞台をライヴで観たのは、今回が初めて。
素晴らしすぎて言葉にできないと思っていると、きっと永遠に書けないだろう。
というわけで、あの舞台の全容を書き記すことは不可能だけれど、私なりの言葉で片鱗を記しておく。
とにかく、今まで観てきた舞踊をはじめ、古典芸能、音楽、演劇などなど、どんなものとも比較できない衝撃を受けた。
故・米原万里さんの本に、『打ちのめされるような凄い本』というタイトルの書評本があるけれど、ピナ・バウシュの舞台が正に「打ちのめされるような凄い舞台」だった。
きれいだった、美しかった、見事だった、おもしろかった……など、エンターテインメントを観てよく使うような言葉が、どれも当てはまらないし、当てはめたくない。
でも感動したというのでは、あまりにありきたりで、だから「打ちのめされた」としか言いようがないのである。
と言っても何のことやらわかりませんね(笑)。
私が観た「フルムーン」は、水がテーマ。
右手に巨大な岩があり、そこにダンサーが駆け上がったり、滑り落ちたり、水をかけたり。
ペットボトルの水をダンサーが振り回すと、水がきれいな弧を描いてきらめいたり。
水ははじめ、舞台の後方の真ん中から、一筋の糸のような細い雫となって滴り落ちているのだが、やがて大量に振り出す。土砂降りの大雨の中をダンサーたちが踊る。

画像は、ドイツの公式サイト からお借りしました。
Vollmond 2006年Foto:Laurent Philippe
こんな感じで水の中で踊ったり、かけ合ったり。
水しぶきが照明の光に反射して、美しい。
今回の来日公演のもうひとつの演目の「パレルモ パレルモ」は、廃墟の瓦礫(本物)の中を踊るそうだ。
「春の祭典」という演目では、本物の土の上で踊る。
水や土、瓦礫といった負荷をかけることで、リアルな動きを目指しているのだとか。
そういった舞台装置や演出も素晴らしいのだけれど、ダンサーが素晴らしい。
技術的にも水準は相当高いのは言うまでもないけれど、一人ひとりがとても個性的なのだ。古典バレエのように、プリマ、プリンシパルを中心に、その周りを群舞……というのとはまったく違い、中心になるダンサーはおらず、それぞれが主人公という感じ。
よって、同時にいくつものドラマがひとつの舞台で繰り広げられており、目で追うのが追いつかないぐらい。
ダンサーの年齢、国籍、容姿もこれまたいろいろで、それぞれのキャラクターに合ったダンスシーンが用意されている。
というような、実に自由で多様な世界なのだ。
そして、特にストーリーというものはないのだけれど、そこにはドラマがあり、激しく感情を揺さぶられる。
女と男が踊っているかと思うと、離れる。
誰かに引き剥がされる(離される、というより剥がされるといった感じなのだ)。
女と男が抱擁していると、女の髪を、別の男がやって来て、口でくわえて引き剥がす。
そんな「身体の会話」(松岡正剛氏による。下記にリンクはってあります)といったものが展開される。
こんなふうに言葉で説明してしまうと、なんだかたどたどしく、もどかしいのだが、これを素晴らしい身体能力をもった個性的なダンサーたちが繰り広げるのだから、それはそれは魅力的。
出会っては別れる、という私たちの人生を俯瞰して描いているようにも見えるけれど、普通の日常では得ることのできない深い感情が湧き起こり、こういう感情を味わうためにこそ、芸術ってものは存在するんだなあ……と思った。
そして、そこにまで至る芸術というのは、そうそうない……とも感じる。
だから、たまたま出会ってしまうと、打ちのめされる。
人生にそう何度も出会えるものではない。
バッハの「マタイ受難曲」やモーツァルトの「レクイエム」を聴いた時の感動と近いかも知れない。
その深い感情とは、世界の根源に触れたような感じ、とでも言うべきか……。
といって、シリアスなだけではなく、品のよい色気とユーモアのあるところが、私は好き。
女性が男性にブラジャーを何度も何度も外させて「もっと早く」と急かしたり、「水は100℃で沸騰する。ミルクは目を離すと、必ず吹きこぼれる」といったようなセリフを言って会場を笑わせたり(ちゃんと日本語のセリフだった)。
人の滑稽さを出しながら、痛み、悲しみ、喜び……など、さまざまな感情を、身体で、ダンスで、時に言葉を使いながら表現している。
さて、この演目は「フルムーン」なのだけれど、舞台に月は現れない。
あるのは、水、水、水……と巨大な岩だけ。
「今夜は満月だから、ワインを飲んで酔いたいわ」(うろ覚えなので、正確ではないが)という女性ダンサーのセリフの中にだけ、月――フルムーンが現れる。
でも全体を通してなぜか、不思議と「フルムーン」な印象がするのだ。
衣装も、女性はシンプルな裾の長い柔らかなドレス、男性はゆったりめのパンツにシャツ、もしくは上半身は裸といったスタイルで、とてもセンスがいい。
終わった後、一緒に観た連れ合いが「現代の日本で、ピナ・バウシュの舞台と拮抗できるものが舞台でも文学でも音楽でもあるだろうか?」というようなことを言った。
私も、今まで自分が書いてきたこと、あるいはこれから書こうとしていることがいかにつまらないものであるか……というのを顧みて考えてしまった。
つまらない……というより、 痛みを伴なわないから、深くならないのだな、と思った。
それはどういうことか、まだ上手く説明できないのだけれど。
それから、連れ合いによると、十数年前に観た時より躍動感に溢れ、より素晴らしくなっていたそうだ。
カーテンコールの拍手では、ピナが登場した。
黒づくめの衣装に、髪を後ろでひとつに束ねた、お馴染みのシンプルなスタイル。
その佇まいは、控えめなのに神秘的で強いオーラを放っていた。
ピナが舞台を続ける限り、私は観続けようと思った。
さて、観てからしばらく経った今、さらに思うのは……。
ピナは、現代人というのは自由なつもりでいるけれど、実はそうじゃないっていうことを表現したいのではないかということ。
現代に生きる人間は、本当は凄く不自由で、強迫観念的で(実際にピナの舞台では、繰り返しの動作がよく用いられる)、孤独なのではないかと。
昔の人は、時代やお上の命令に翻弄されていた。
結婚相手だって自分で選べる人は少なく、個人の意思など尊重されなかった。
でも、むしろ、そういう方が潔く自分の人生を受け入れることができたのかもしれない。
何でも自分で決めたつもりだけど、本当に決めるというのはどういうことなのかわかったものではないし、失敗すると「自己責任」と厳しく責め立てられるのも辛い。
そんな現代人の悲哀や痛み、滑稽さを身体で表現したいのではないかと。
だから、それには、古典バレエでは表現が追いつかず、独自のダンスを創作する必要があったのだ。
とあちこちに考えが及び、やはり上手くまとめられない。でも、まとめる必要もないのだろう。
とにかく、ピナの舞台を体験できたことは、記念すべきこと。
「打ちのめされる」ということは、今までの小さな自分が崩されることであり、ある種の清々しさ(快感と言ってもいいかも)をもたらしてくれる。
ほんのちょっとだけれど、ここ で「フルムーン」の動画を少しだけ見られます。
もっと深く知りたい人は、松岡正剛の評論 とか、浅田彰の評論とかもどうぞ。
<追記>
「今夜は満月だから、ワインを飲んで酔いたいわ」と記したが、後日、連れ合いが買ったパンフレットで確認すると、それは「今夜は満月だから酔っぱらいはだめよ」であった。
逆ではないか(笑)。
自分の記憶の変容が面白いので、このまま残しておくことにする。
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