Pina Bausch

2012年6月30日 (土)

追悼 Pina Bausch----その強い不在感

 今日、6月30日はピナ・バウシュの命日。
 突然の訃報を聞いて悲しみにくれてから、早くも3年が経ちました。
(このわずか3年の間に日本に起きたことを思うと、またいっそう複雑な思いにかられますが……) 

 今年は、ヴェンダースの映画も無事公開されたれど、やはり喪失感は消えません。 
 先週、J-WAVEで、ピナの舞台音楽を手がけた三宅純氏が話していて、「強烈な不在感」というようなことを言っていたのが心に残りました(正確な言葉は思い出せないが)。
 まさにそのとおり。年月が経つと忘れるどころか、その不在感がますます色濃くなるような……。
 三宅氏と「フルムーン」のサントラ盤を制作した時のエピソード。
 制作に入ったある日の夜、ピナから彼のもとに電話があり、そこでピナが何を言ったかというと……。
「これはいったい何のためにつくっているの? 売るためのものなの?」
 と、とても不思議そうに尋ねてきたのだそうです。
 一瞬、三宅氏は何を言われているのかわからなかったとか。
 売るために何かを制作する、ということが理解できなかったらしい。
 利益だ、やれマーケティグだ、世の中はそんなに甘くないとか、そんな言葉ばかりで、美しいもののひとつも生み出せない今の世の中。
 薄ぺっらでうるさくて醜くてばかばかしいものばかり増えている……と毒づきたくもなるけれど、自分もたいしたものを生み出せないからこそ、ピナの踊りに魅せられるのでしょう。
 お金とか名誉とかそういうものとは無縁のところで、ただただ、表現するために踊り続けた人生。
 それはひとつの奇跡。
 ファンにとっては、ピナがこの地上から飛び立つには少し早かったと思うけれど、その人生の後半ではお金に無関心でいてもひたすら踊るために身を捧げられた……ということは幸せな人生だったのだろうと思います。

 ということで、命日を偲んでこの美しい映像をどうぞ。 
 ブッパダール舞踊団のはyoutubeにあがっていても削除されてしまうことが多いのですが、これは残っていました(これも消されてしまうかもしれませんが)。




 以前もネットで見たことがあり、誰の作品かよくわからなかったのですが、Lee Yanorという女性アーティストの映像でした。

 舞台の上だけでなく、カフェでコーヒーカップを前にしてもピナは美しいのだなあ。
 公演が終わった後、ダンサーたちと一緒にバーで飲み、お店から「閉店時間です」と言われても、「私は帰らないわよ」とよく言っていたというピナ。
 私はなんとなくこのエピソードが好きです。

 

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2011年1月 4日 (火)

私と踊ってーーKomm tanz mit mir

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 昨年、2010年6月12日(土)に観たピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の「私と踊ってーーKomm tanz mit mir」(新宿文化センター)の、随分遅れた感想です。
 ピナが亡くなった後、初めての日本公演。

 まず、ロビーには、実際の舞台衣装と同じ黒ずくめの男性ダンサーが佇んでいた。
 竿の先のようなものにぶらさげた帽子を引きずって歩き、会場の誰かが拾い上げたり、あるいは階段の上から頭の上に被せたりと、すでに舞台が始まっているかのような演出。
 ホールの中に入ると、黒い幕の隙間から何か見えて、その中ですでに始まっている(それも演出)。
 小さな隙間から覗き見えるのは……男女のダンサーたちがドイツの童謡のようなものを歌いながら、手をつなぎ輪になって踊っている様子(上の写真のポスター右端を参照)。真ん中には枝の山。
 まるで絵本を見ているかのような、ちょっとファンタジックな世界。
 さらに、その舞台にも私たち観客と同じような位置で、椅子に座って、それを眺める男性ダンサー。
 やがて、黒い幕が上がり、ダンスが始まる。
 後方は一面、大きな滑り台のような斜面になっていて、ダンサーたちが滑り降りる。

 飛び交う黒い帽子、女性ダンサーをわらわらと囲む黒づくめの男性ダンサーたち、舞台の上でドレスを脱いだり着たりするその女性ダンサー……と、もうそれだけで、ああ、ピナの世界にいるのだなあと、ぞくぞくしてくる。

 「私と踊って」というタイトルが示すとおり、ひとりの女性ダンサーが男性に踊ってと懇願ーー懇願というより、ほとんど叫びに近い切望ーーするのだが、決して交わることはなく、すれ違うばかり。
 そのすれ違いを強迫観念的な繰り返しのダンスに託して……。
 悲しく哀れで痛々しく、そしてどこか滑稽な感じ。
 実際の人生ーー男女のすれ違いーーを凝縮したようでもある。

 2008年に観た「フルムーン」のようなダイナミックさはなかったが、童話のような始まり方や、人生の残酷さが滲み出てくるようなひりひりしたダンスは、いかにもピナの初期の作品という感じで(1977年作:しかし今観てもこの斬新さはどうだろうか!)、私は好きだ。
 また主演の女性ダンサージョセフィン・アン・エンディコットは初演から踊っているそうで、古典バレエにはありえないことで驚きだ。
 ダンサーが年齢を重ねることによって、初演時とはきっと違う空気を醸し出しているはずで、こういうのもピナのダンスの面白さだと思う。
(それにしても、エンディコットのダンスは素晴らしく、倒れては起き上がりという繰り返しは相当ハードだと思うけれど、実に見事だった!)

 さて、ロビーには、今までの公演の舞台写真がたくさん飾られていた。
 ああ、これも観たかったな、あれも観たかったなと、一緒に行った連れ合いと言い合い、出遅れファンは後悔の嵐だ。
 そして、百合の花が飾られたピナの写真の前に来ると、亡くなったことを改めて突きつけられたようで、悲しくなった。本当にもういないのだなと思う。
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 その他、 Img_2007 ヴッパタール舞踊団で制作されたポスターなども販売されていて、私は買う気まんまんだったのだが、これ!といった写真がなくーーこれだけ名ダンサーが揃っていれば、いい写真が撮れると思うのだがーーピナの若い頃のポスターにいたっては、ダンサーなのに静止している姿の写真(笑:アイドルじゃないんだからダメじゃん!)、結局プログラムだけを購入。

 例えば、どうしてこの美しい1枚をポスターにしないのかと思う。
 日本人の写真家・飯島篤さんが撮影した「カフェ・ミューラー」の1シーン。
 会場に飾ってあって、これを携帯カメラで撮影している人がいっぱいいた。
 『怖がらずに踊ってごらん』というピナの評伝の翻訳版の表紙にも使われている写真だ。
 ヴッパタール舞踊団も日本文化財団も商売っけなさすぎ(笑)。

 ところで、この日は、まだ本格的な夏に入る前だったが、凄く暑い1日だった。
 少し早く着いたので、公演前、文化センターのはす向かいにあるフレッシュネスバーガーで冷たいものを飲むことになった。
 隣のテーブルには、年配の日本人と外国人の女性二人連れ。
 ふたりとも黒い服で、エレガントな雰囲気。もしかして、ヴッパタールの関係者かなと思ったら、案の定で、英語の会話がちらちらと耳に入った。
 やはり、ピナが亡くなった直後は混乱した状況で、ダンサーたちは"crying" "shouting" という状態だったとか……そこしかわからなかったけれど、皆、悲嘆にくれたのだろうなと思い、胸が痛んだ。

 それにしても、とにかく、こうしてまた観ることができて幸せだった。
 これからヴッパタール舞踊団はどうなるかわからないが、公演を続けてくれる限りは見続けたいと思う。
 ありきたりなもの言いになってしまうが、ピナの魂はダンサーひとりひとりの中に入り、そのダンスの中で生き続けているのだと感じた。

 先日書いた須賀敦子の文章もそうだけれど、ピナのダンスは、日常に埋没しそうな私に、ふっと人生の深淵を垣間見せてくれる。

 さて、ここで朗報。
 ヴェンダースは、ピナの映画の撮影中、ピナに逝かれてしまい中断していたようだけれど、撮影は続行された模様。
 予告が素晴らしいのでリンクを張っておきます。
Wim Wenders bittet zum Tanz (最初にドイツのCMが入ったりします)
 少なくとも10回は見たかな。舞台のドキュメントだけでなく、ロケでダンサーが踊っていて、見覚えのあるダンサーがいろいろ登場している。
 この予告編を見ただけでも鳥肌もの。さすがヴェンダース。 

 日本に来るのはいつだろうか。待ち遠しい。

 それから、今月14日のNHK芸術劇場では、この2010年の公演が放送されます。必見!

*追記1月16日:上記の芸術劇場を見ました。舞台で歌われていたドイツの童謡や、その他のドイツ語の台詞にもすべて字幕が付いていて、さらに理解が深まり、ありがたい放送でした。

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2010年1月31日 (日)

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団、6月に来日――私と踊って

 昨年の夏、突然にこの世を去ったピナ・バウシュ。
 その「ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団」が今年の6月来日します。
 今まで見逃していた方は、これはもう行かないと!

 昨年の秋に聞いた貫成人さんのトーク・ショーの際、ヴッパタール舞踊団の今後について質問をしてみたのだが、「それは舞踊団のメンバーたちもまだよくわからない状態であり、とりあえず、次の2010年の公演は行うことが決定している」とのことだった。
 また、「ピナの後継者というのは考えられるのか?」という、ほとんどダメ元の質問に対しては、「その辺はとても微妙で、クラシックバレエと異なるので、継承していくのは非常に難しいだろう……」というようなことを仰っていた。
 貫さんもピナとは親しかったとはいえ、直接の関係者ではないので、何とも答えようがないと思うが。
 ピナのダンスは、公演ごとに記録が付けられており、それはアーカイブとなって保管されているそうなので、ある程度までは再演可能だけれど、新しい演目というのは、ピナがいない今となってはそれも非常に難しい……とも。
 それはそうだろうと思う。
 再演するにしても、公演ごとに、練習ごとに、ピナがダンサーたちに細かく質問したり、丁寧に丁寧にやり取りをして、創り上げていくものだったそうだから。
 ピナの代わりになる人はいないだろう。
 今のダンサーは、ピナの教えを直に受け、長年踊ってきた人たちなので、ピナの息吹はまだまだ残っていると思う。
 でも、それが永久に続くとは思えない。
 だから、今回の日本公演はピナがいなくても、その息遣いを感じられる最後のものになるかもしれない……と私は個人的に感じている。
 とにかく、今年がその最後かどうかはわからないが、そういつまでも続くとは思えないので、貴重な来日公演だと思う。

 というわけで、6月なのに、もうチケットをゲットしましたよ!
 2008年に引き続き、今年もまた連れ合いと一緒に観に行きます。
 でも、ちょっとすったもんだがあったのだ。 
 日本文化財団にダイレクトメールをリクエストしていたのだが、郵送されてきたのが、一般発売の直前だったり、それもFAXで申し込み受付、だいたいの希望の席を書いてください、ご希望に添えない場合はお電話します……などとあって、今時、本当にそんなアナログな対応をしてくれるのか?!と非常に心配だった。
 おまけに、ネットでのチケット(民間のチケットサービス)の先行発売はすでに始まっており(その前にダイレクトメールくれればいいのに!!)、確かめてみたところ、ネットではあまりよい席は残っていない(手数料も高いし)。
 そんなこんなで、なんだかよくわからないまま、おそるおそる申し込んだら――お役所仕事的ではあれど、さすが主催元、1階9列が並びで無事取れた!
 おまけにペア券だと、1枚につき500円引き。
 チケットも普通郵便(!)で送られてきたりして(だから手数料かからないんだろうけれど)、いろいろ不安だったけれど、まあ、結果よければすべてよし、ということで(笑)。

 日本文化財団のHPより。photo:エー・アイ飯島直人
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 公演詳細はこちら
 今回の演目は、初期の作品、本邦初公演の「私と踊って」。
 このタイトルだけで、胸に迫ってくるというか、何か感情を掻き立てられるものがある。
 写真も素敵で、この1枚だけでぞくぞくする!
 
 ダンスというものは、すべてを映像に焼き付けられるわけでもなく、絵や小説のように紙の上に残るものでもない。
 踊る者と観る者が、同じ時間と場を共有する中だけに感動がある。
 儚い芸術だなと思う。
 でも、観た者の記憶には、その感動がしっかりと刻まれる。
 そういうものに全人生をかけて生き抜いたピナ・バウシュという人の凄さを改めて感じる。

*ピナについての記事や2008年の公演「フルムーン」の感想も書いています。
 こちら もどうぞ。

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2009年7月20日 (月)

Pinaからの贈り物――ふたつの虹

 今日(日曜)の夕方、部屋が不思議な光に満ちていたので、美しい夕焼けだろうか?と窓の外を見ると……大きな虹がかかっていた。

 見事な半円形を描き、そしてさらに驚いたのは、虹が二重にかかっていたこと!
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 見えるでしょうか。上にもうひとつ、うっすらと虹がかかっているのが!

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 小型のカメラだが、レンズをズームアップして撮ってみると、なかなかきれいに色が出た。

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 三鷹の空、7月19日(日)、日が暮れる少し前、確か午後6時過ぎくらいだったのか……興奮して、何時頃だったかよく覚えていない。

 団地のベランダからは空が広く見えるので、越してきてよかったなあと思った。
 昨夜は、遠くの方で打ち上げられた花火がちょっと見られたし。
 虹や花火は、夏が美しいと思える瞬間。
 特に虹は、その瞬間に巡り合えるのは奇跡にも近い。

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 虹が薄くなってくると、代わりに雲が金色に輝き始め、どんどんと美しくなっていった。
 まるで、雲の神様が口から虹を吹いているように見えた。

 こんな空を見ると、生きていてよかったなと素直に思う。
 そして、Pinaからのメッセージ、Pinaからの贈り物かも知れないと“勝手に”思う。
 この虹をきっかけに、そろそろPinaの喪を明けるべきかも。
 
  もうピナの新作を見られないというのは、耐え難いことに違いない。
 だが、性急な落胆ほどピナにふさわしくない姿勢はないだろう。


  と、浅田彰氏も書いているし(「時が作った舞台と人生-ピナ・バウシュ追悼」朝日新聞7月7日朝刊掲載)。

 生きていれば虹も見られる。
 ブッパダール舞踊団も解散したわけではない。
 私は性急に落胆し過ぎていたかも知れない(それにはいろいろと理由があるのだが、また後日書くことにする)。
 
 私の旅はまだまだ続く。これからも決して平坦ではなさそうな旅。
 いつまで続くかわからないが、終わるまでは続くのだ……と、とりとめもないことを思う。

 ふと、「そして船は行く」……というフェリーニの映画のタイトルを思い出した。

 

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2009年7月 7日 (火)

フルムーンの夜に

 今日は七夕、そして満月。
 明るい星もひとつ、ふたつ見える。
 七夕といっても、毎年、曇り空や雨が多いのに珍しいこと。
 夜の雲が月の光に照らされて虹色に輝き、梅雨時の空とは思えないほど幻想的。
 こんな美しい夜に思い出すのは、やはりPinaのこと……。
 
 ドイツの高名な振付家が亡くなった、という単なるデータ的なニュースしか流れなかった日本――評論家の文章なども出てくると思うのだけれど、しばらく時間がかかりそうだ。
 Pinaの名前で検索をして個人のブログに辿り着いても、ニュースにリンクが貼ってあるだけで、2、3行の文章がちょろっと、というのがほとんど。
  どうやら、喪の仕事を共有できる人は限られているらしい。

 マイケルの追悼式が、もうじき大々的に行われるそうだ……。
 今、この世界では偉大な芸術家をもうひとり失っているのだけれど、それは同じこの地上ではなく、まるで遠い月の世界の出来事のよう。
 彼女を愛していた人は、月の上に立ってひっそりと嘆くばかり。

 フランスでは、ル・モンド紙で号外が出たらしい。
 フランス語かドイツ語ができたら、よかったのにな……。
 そんな中、イギリスのガーディアン紙の記事がちょっとよい感じだった。
 guardian.co.uk      Pina Bausch1940-2009
 英語もそんなに得意ではないので、きちんと読解できたわけではないけれど、単なるお知らせではない、このテキストを書いた人の思いが込められた、ちゃんとした追悼の記事になっている印象を受けた(たぶん)。

 重力から解き放たれたPina、今夜はフルムーンの輝きのなかで自由に飛翔していてほしい。

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2009年7月 5日 (日)

カフェ・ミュラー、生の舞台を観ることは叶わなかったけれど

 下記は、2006年の8月の日記より。
 この年の春、来日していて、その時の「カフェ・ミュラー」をNHKで放映したものを観た感想。
 余分な雑記なども入った日の記事だったので、その部分だけ抜き出しました。
 ピナがこんなに早く逝ってしまうとは夢にも思っていなかったので、文章もちょっと軽いし短いし、ただ、今後の期待でいっぱいという感じ……。
 しかし、この時点で、いかに私がピナを愛していたか、わかっていただけると思います。
 出遅れたファン(後悔……)ではありますが。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 NHKの芸術劇場という番組で、ピナ・バウシュの来日公演を観た。
 「カフェ・ミュラー」――素晴らしい!
 興味はあるのだが、生の舞台はまだ一度も観ていないので、次回、来日する時は、何が何でも観に行かねば!と決意する。

 60代の半ばを過ぎて、今もなお踊り続けているピナの美しさは奇跡的。
 そして、美しさだけでなく、人間の痛みや孤独もダンスであそこまで表現できるとは……もう鳥肌が立ちまくり。
 内面から滲み出る美しさ、という言葉は、まるで彼女のためにあるようだ。 
 彼女を見ていると、年を取ることが怖くなくなる。そんな気持ちにすらなった。
 やはり、真実を追い求めている人間は美しいのだ!と、大真面目に考える。 
 自分も、もっと真剣にいろいろなことに取り組まねば……と。
 しかし、録画したものの、なぜか番組が15分ずれ込んでいて、最後の貴重なインタビューが途中でぷっつり……がっくり。
 ちなみに、映画「トーク・トゥ・ハー」にも、実名のままピナ・バウシュとして登場。
 映画の中で、ピナ・バウシュの舞台を観ながら、あまりの美しさに涙を流す男性が出てくるが、あんなふうに泣ける男性が、私は好きだ。
 また、「トーク・トゥ・ハー」を観たくなった。

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Pina Bausch:A Coffee with Pina

 7月は、ピナの死を悼んで、ピナのことだけを書くことに決めました。
 東京の片隅で生きる一ファンなりの哀悼の意です。喪に服します。
 いろいろなニュースや情報が日々めまぐるしく飛び交い、消費され、忘れられていくなか、せめて個人発信のブログくらい、自分の大切なものに対してこだわりたいと思うのです。

 と言っても、舞台もそれほど観ておらず、あまり偉そうなことも言えず、ついついYouTubeの画像をリンクしてしまうばかりなのですが。
(だって、やはりダンサーは動いていないとね……)

 と、思わずリンクしてしまったのも、ヴェンダースがピナの映画制作に入っていたというのを知って。
ビム・ベンダース×ピナ・バウシュ。夢のコラボで世界初3Dダンス映画製作!
 この記事は5月、つい最近ではありませんか。
 本当に、体調不良を訴えてから、あっという間に風のように去っていってしまったという印象です。
 上記の映像はその関連のものらしいですが、カフェに座っているピナの存在感が素晴らしく、手をちょっと動かしただけで、周りの空気が変わるようです。
 でも制作に時間がかかりすぎ、未完になってしまったそうで、ヴェンダースは自分のサイトのトップページでピナへの追悼文を寄せています。
 そこに掲載されている、煙草を手にしているピナがあまりにも素敵。
 嫌煙が世界的に広がるなかでも、きっとピナは煙草を吸い続けていたんだろうな。
 ピナは途中で逝ってしまったけれど、これはぜひ完成させてほしい。

ヴェンダースのサイト

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2009年7月 1日 (水)

Pina Bausch追悼──フルムーンいっぱいの悲しみ

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Foto: Atsushi Iijima

 
 
 
 なぜか相次ぐ著名人の訃報のなか、私にとって最も悲しいニュースが。

 公式HPのニュース
 asahi.comのニュース
 Pina Bausch(ピナ・バウシュ)が6月30日に亡くなりました(写真はブッパダール舞踊団公式HPよりお借りしました)。
 信じられません。呆然としています。
 昨年の春の公演が、私にとっての、ピナ体験の最初で最後になってしまいました。
 次の公演にも絶対行こうと心に誓ったのに。 
 
 ここ数年来、あらゆる表現形態のなかで、最も心揺さぶられたのが、ピナ・バウシュとそのブッパタール舞踊団のダンスでした。
 おこがましくも自分の表現……というものを今一度、根源からの見直しを迫られるくらい、衝撃を受けました。
 何をしていくべきか、それを探っていくためにも、もっともっと見たかったのに、それはもう叶わない夢になってしまいました。

 でも、2008年の春にかけがえのない体験ができて、幸運だったと思います。
 たまたま公演を知って、チケットが取れ、大切な人と見られたことは、何かの「啓示」だったのでは……とすら思えます。

 ピナの冥福をお祈りします。
(でもまだ信じられない……というより、信じたくない)

 先週、フルムーンのサントラ盤が発売されているというので、ふと思い立ってタワーレコードへ探しに行ったのですが、あれは何か虫の知らせだったのでしょうか(あいにく、CDはなかったのですが)。

 7月の初めての日記が、ピナの訃報で始まるなんて、悲しすぎる。
 そう言えば、私が観た「フルムーン」は、舞台中、美しい雨が降り続いていたっけ。
 そして、7月1日深夜の今も、ピナの死を悼むかのように、雨が降りしきっています。
 雨の季節、満月いっぱいの悲しみ。今夜は眠れない……。

「フルムーン」を観た時の感想 です。

フルムーン

カフェ・ミュラー

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2008年4月29日 (火)

ピナ・バウシュ ヴッパダール舞踊団「フルムーン」        

 先月3月29日に観たピナ・バウシュ ヴッパダール舞踊団の「フルムーン」(新宿文化センター)。
 ピナ・バウシュの舞台をライヴで観たのは、今回が初めて。
 素晴らしすぎて言葉にできないと思っていると、きっと永遠に書けないだろう。
 というわけで、あの舞台の全容を書き記すことは不可能だけれど、私なりの言葉で片鱗を記しておく。

 とにかく、今まで観てきた舞踊をはじめ、古典芸能、音楽、演劇などなど、どんなものとも比較できない衝撃を受けた。
 故・米原万里さんの本に、『打ちのめされるような凄い本』というタイトルの書評本があるけれど、ピナ・バウシュの舞台が正に「打ちのめされるような凄い舞台」だった。
 きれいだった、美しかった、見事だった、おもしろかった……など、エンターテインメントを観てよく使うような言葉が、どれも当てはまらないし、当てはめたくない。
 でも感動したというのでは、あまりにありきたりで、だから「打ちのめされた」としか言いようがないのである。

 と言っても何のことやらわかりませんね(笑)。

 私が観た「フルムーン」は、水がテーマ。
 右手に巨大な岩があり、そこにダンサーが駆け上がったり、滑り落ちたり、水をかけたり。
 ペットボトルの水をダンサーが振り回すと、水がきれいな弧を描いてきらめいたり。
 水ははじめ、舞台の後方の真ん中から、一筋の糸のような細い雫となって滴り落ちているのだが、やがて大量に振り出す。土砂降りの大雨の中をダンサーたちが踊る。

Philippe_vollmond

画像は、ドイツの公式サイト からお借りしました。
Vollmond 2006年Foto:Laurent Philippe 

 こんな感じで水の中で踊ったり、かけ合ったり。 
 水しぶきが照明の光に反射して、美しい。

 今回の来日公演のもうひとつの演目の「パレルモ パレルモ」は、廃墟の瓦礫(本物)の中を踊るそうだ。
 「春の祭典」という演目では、本物の土の上で踊る。
 水や土、瓦礫といった負荷をかけることで、リアルな動きを目指しているのだとか。

 そういった舞台装置や演出も素晴らしいのだけれど、ダンサーが素晴らしい。
 技術的にも水準は相当高いのは言うまでもないけれど、一人ひとりがとても個性的なのだ。古典バレエのように、プリマ、プリンシパルを中心に、その周りを群舞……というのとはまったく違い、中心になるダンサーはおらず、それぞれが主人公という感じ。
 よって、同時にいくつものドラマがひとつの舞台で繰り広げられており、目で追うのが追いつかないぐらい。
 ダンサーの年齢、国籍、容姿もこれまたいろいろで、それぞれのキャラクターに合ったダンスシーンが用意されている。
 というような、実に自由で多様な世界なのだ。

 そして、特にストーリーというものはないのだけれど、そこにはドラマがあり、激しく感情を揺さぶられる。
 女と男が踊っているかと思うと、離れる。
 誰かに引き剥がされる(離される、というより剥がされるといった感じなのだ)。
 女と男が抱擁していると、女の髪を、別の男がやって来て、口でくわえて引き剥がす。
 そんな「身体の会話」(松岡正剛氏による。下記にリンクはってあります)といったものが展開される。

 こんなふうに言葉で説明してしまうと、なんだかたどたどしく、もどかしいのだが、これを素晴らしい身体能力をもった個性的なダンサーたちが繰り広げるのだから、それはそれは魅力的。

 出会っては別れる、という私たちの人生を俯瞰して描いているようにも見えるけれど、普通の日常では得ることのできない深い感情が湧き起こり、こういう感情を味わうためにこそ、芸術ってものは存在するんだなあ……と思った。
 そして、そこにまで至る芸術というのは、そうそうない……とも感じる。
 だから、たまたま出会ってしまうと、打ちのめされる。
 人生にそう何度も出会えるものではない。
 バッハの「マタイ受難曲」やモーツァルトの「レクイエム」を聴いた時の感動と近いかも知れない。
 その深い感情とは、世界の根源に触れたような感じ、とでも言うべきか……。

 といって、シリアスなだけではなく、品のよい色気とユーモアのあるところが、私は好き。
 女性が男性にブラジャーを何度も何度も外させて「もっと早く」と急かしたり、「水は100℃で沸騰する。ミルクは目を離すと、必ず吹きこぼれる」といったようなセリフを言って会場を笑わせたり(ちゃんと日本語のセリフだった)。
 人の滑稽さを出しながら、痛み、悲しみ、喜び……など、さまざまな感情を、身体で、ダンスで、時に言葉を使いながら表現している。

 さて、この演目は「フルムーン」なのだけれど、舞台に月は現れない。
 あるのは、水、水、水……と巨大な岩だけ。
 「今夜は満月だから、ワインを飲んで酔いたいわ」(うろ覚えなので、正確ではないが)という女性ダンサーのセリフの中にだけ、月――フルムーンが現れる。
 でも全体を通してなぜか、不思議と「フルムーン」な印象がするのだ。
 衣装も、女性はシンプルな裾の長い柔らかなドレス、男性はゆったりめのパンツにシャツ、もしくは上半身は裸といったスタイルで、とてもセンスがいい。

 終わった後、一緒に観た連れ合いが「現代の日本で、ピナ・バウシュの舞台と拮抗できるものが舞台でも文学でも音楽でもあるだろうか?」というようなことを言った。
 私も、今まで自分が書いてきたこと、あるいはこれから書こうとしていることがいかにつまらないものであるか……というのを顧みて考えてしまった。
 つまらない……というより、 痛みを伴なわないから、深くならないのだな、と思った。
 それはどういうことか、まだ上手く説明できないのだけれど。
 それから、連れ合いによると、十数年前に観た時より躍動感に溢れ、より素晴らしくなっていたそうだ。

 カーテンコールの拍手では、ピナが登場した。
 黒づくめの衣装に、髪を後ろでひとつに束ねた、お馴染みのシンプルなスタイル。
 その佇まいは、控えめなのに神秘的で強いオーラを放っていた。
 ピナが舞台を続ける限り、私は観続けようと思った。

 さて、観てからしばらく経った今、さらに思うのは……。

 ピナは、現代人というのは自由なつもりでいるけれど、実はそうじゃないっていうことを表現したいのではないかということ。
 現代に生きる人間は、本当は凄く不自由で、強迫観念的で(実際にピナの舞台では、繰り返しの動作がよく用いられる)、孤独なのではないかと。
 昔の人は、時代やお上の命令に翻弄されていた。
 結婚相手だって自分で選べる人は少なく、個人の意思など尊重されなかった。
 でも、むしろ、そういう方が潔く自分の人生を受け入れることができたのかもしれない。
 何でも自分で決めたつもりだけど、本当に決めるというのはどういうことなのかわかったものではないし、失敗すると「自己責任」と厳しく責め立てられるのも辛い。
 
 そんな現代人の悲哀や痛み、滑稽さを身体で表現したいのではないかと。 
 だから、それには、古典バレエでは表現が追いつかず、独自のダンスを創作する必要があったのだ。

 とあちこちに考えが及び、やはり上手くまとめられない。でも、まとめる必要もないのだろう。
 とにかく、ピナの舞台を体験できたことは、記念すべきこと。
 「打ちのめされる」ということは、今までの小さな自分が崩されることであり、ある種の清々しさ(快感と言ってもいいかも)をもたらしてくれる。

 ほんのちょっとだけれど、ここ で「フルムーン」の動画を少しだけ見られます。
 もっと深く知りたい人は、松岡正剛の評論 とか、浅田彰の評論とかもどうぞ。


<追記>
 「今夜は満月だから、ワインを飲んで酔いたいわ」と記したが、後日、連れ合いが買ったパンフレットで確認すると、それは「今夜は満月だから酔っぱらいはだめよ」であった。
 逆ではないか(笑)。
 自分の記憶の変容が面白いので、このまま残しておくことにする。

 

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