アート

2008年12月30日 (火)

今年一番好きだった絵

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 今年、一番好きだった絵。
 ヴィルヘルム・ハンマースホイ「背を向けた若い女性のいる室内」(1904)
 ポストカードを複写したものなので、本物の美しさにはほど遠いですが……。
 今年は、ラファエル前派のミレイ展で念願のオフィーリアも見たし(昔、ロンドンのテートギャラリーへ行った時、貸し出し中だったのか、展示がなかったので、ようやく本物を見られて感激!)、フェルメールも行くには行ったのだが、あまりの人の多さに、じっくり鑑賞できず、とりあえず本物を確認しに行った……という感じで、振り返ったら、このハンマースホイが一番心に残っていた。
 清潔で静謐な空間。
 こういう静かな絵には、本当に心惹かれる。現代の人間にも訴えかけるものがある。
 とにかく、ひと気のない室内ばかりを描いた人で、たまに人物がいるかと思えば、こんなふうに後ろ姿だ。何も訴えない、顔も見えない人物だからこそ、見る者の想像力を掻き立てる。短編小説のひとつでも生まれそうな雰囲気。
 当時、絵に描かれる人や室内は、その富を誇示するものだったのに、ハンマースホイは見事までにそういった現生的なものを削ぎ落とす。
 こんな画家がデンマークにいたことはまったく知らなかった。フェルメールにも影響を受けているそうだ。
 ブルーグレイ、グレイ、白、黒、茶色といった色調がほとんど。
 ちなみに上の絵の横にあるのは、ロイヤルコペンハーゲンのパンチボウル。
 他にも、ロイヤルコペンハーゲンのものがさりげなく描かれていて、長い時を経て受け継がれ、愛されているものには、強い美しさがあるなあと感じた。
 ハイハンドルの真っ白なカップなどがとても美しく、今でも作られているタイプなので、ほしいなあなんて思いつつ、見ていた。
 
 ところで、家具の影があり得ない方向に伸びていたり、妻の足と椅子の足がひとつに溶け込んでいるように見えたり……マルグリットのだまし絵的な手法もあった。
 それから、部屋のドアにノブがない絵も。
 どこにも行けない、そこだけで世界が充足し、完結しているような不思議な絵。
 閉塞的な絵なのに、なぜか癒されるような開放感があった。

 また、会場には、ハンマースホイが愛したストランゲーゼ30番地の自宅が3Dになっていた。
 室内や家を描き続けたハンマースホイの絵は、建築家の人などが見たら、とても興味深いのではないかと思ったが、どうだろうか?

 今回の展覧会は、北欧に詳しいcalvinaさん のブログで教えていただきました。
 いつも、よい情報を教えてもらっています。ありがとうございました!

今年一番心を鷲掴みにされたダンス
ピナ・バウシュの「フルムーン」

今年一番心を動かされた映画
「善き人のためのソナタ」(ドイツ映画・WOWOWにて)
 落ち着いたら、いつか詳しく書こうと思います。

今年一番笑った映画
「パリ、恋人たちの2日間」

今年いちばんうっとりした音楽
菊地成孔 ペペ・トルトメント・アスカラール公演
オーチャードホール 12月6日

 こうしてみると私は、憧れはラテンなのですが、本質的には、じっくりみっちりと内に向かう、北の方の人たちの表現に共感しがちなようだ。

 ハンマースホイ以外は、連れ合いと一緒に見たり聞いたりしたものばかりなので、今年もこうして一緒に楽しめたことにも感謝!
 美しいものにいろいろと出会えた一年だった。

 そして、今年一番やった!と思ったことは、引っ越しが決まったこと。
 というわけで、荷造りに戻ります。
 世の中が華やぐクリスマスやお正月が近づくにつれ、私の部屋は殺風景に、殺伐となっていくので、なんだか不思議な感じ(でも心の中はわくわく)。

 ネットも12月末でつながらなくなるので、今年最後の更新です。
 今年1年間、ありがとうございました。
 皆様、よいお年をお迎えください。

 次の更新は、新居からです!

(無事に引っ越しできますように!)

 
 

  

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2008年8月24日 (日)

ルドゥーテのバラ

 Rose3 6月に行った、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムにて開催されていた薔薇空間 について。
 展覧会の構成の中心は、ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテのバラの絵。
 ルドゥーテはベルギー生まれで、フランスの宮廷画家として植物画をたくさん描いた(1759~1840)。
 ちょうどマリー・アントワネットがいて、フランス革命やら何やら、激動の頃のフランスにいたということになる。
 当時は、写真がなかったので、このような緻密で正確な植物画が求められ、ルドゥーテのような人はアーティストではなく、職人的な立場だったのだろう。
 それにしても、ルドゥーテの作品を見ていると、アーティストと職人の境界とは何だろう?と思ってしまう。
 それほどに、彼のバラの絵は、なんと言ったらいいのか、強烈だった。
 彼は自分自身を主張するつもりはなく、ただただバラを正確に描き写したのだろうけれど、そこにはルドゥーテだけにしか出せない個性が強力に現れていた。
 美しいバラには刺があるとはよく言ったもので、ルドゥーテのバラも「美しい」とだけ言って終わりにできない吸引力というか、とてつもない迫力があった。
 原寸大で、花だけでなく葉っぱの葉脈一筋一筋、茎の刺一つひとつ、あるいは虫食いに至るまで省略されることなく、完璧に再現されている。
 うなだれたバラはうなだれたまま、蕾は蕾のまま。
 開花したバラの真ん中から、さらにまた新しい茎がにょっきりと伸びてバラが咲く……ということがごく稀にあるらしいのだが、そんな不思議な生命力を放つバラも描かれていて、なんだか「エイリアン」のようだった。
 絵のバラが、そこから立ち上がって、こちらに向かってくるような、「美」というより「妖気」さえ感じられ、本当にバラの香りが漂ってくるかのようだった。
 そして、こんな空間には『ポーの一族』のエドガーとアランがふらりと現れそうでもあり(笑)。

  また、Bunkamuraの展示の仕方も素晴らしく、ディフューザーで数種類のバラのアロマを噴射していたり、バラの種類ごとにわかりやすくバックのパネルの色が変えられていたり(白、ピンク、濃いピンク、ペパーミントグリーン辺りの色だったと思う)、庭の東屋を模したような展示があったり。
 3DCGムービーでは、バラが蕾から花開いて萎れるまでや、雨に打たれてやがて晴れて風にそよぐまで……などが、ルドゥーテのバラで表現されていて、何回も観てしまった。Rose2_2
 また、誰が書いたのかわからないが、解説もよくて、「まるで初々しい乙女がはじらうような姿」(右の白いバラ→)とか「ヨーロッパの夏の、黄金のような一日がこの絵に閉じ込められている」「甲冑の騎士に守られた王女のような」(うろ覚えなので、正確ではありません)とか、とても詩的だった。初々しい乙女なんて言われると、本当にそんなふうに見えてくるから不思議。
 美術展では、解説は適当に読み飛ばしてしまうのだけれど、今回は一つひとつ丁寧に読み込んでしまった。

 200年ほど前に、遠いフランスで描かれたバラを、この東京で浴びるほど観られる幸せ。
 繊細できれいな和みの展覧会みたいなイメージだったのだけれど、圧倒されっぱなしの絵画展だった。

 展覧会の詳細やバラの絵は、こちらのHP薔薇空間 でまだ見ることができます。

 展覧会は、およそ8割以上が女性。残りの2割の男性は、1割が女性に連れられて、1割くらいの方がひとりで自らの意思で……という感じ。
 こうしてまた女性ばかりが美しいものをたっぷり見て、心の財産を増やしていくのであろうか。

 さて、残念だったことは……。
 観終わって、久々にちょっと贅沢してドゥ マゴでお茶でもしようかと思ったら――テラス席にも本物のバラがたくさん植えられていてきれいだった――お目当ての「薔薇空間ケーキセット」はすでに完売とのこと。
 なんでも「フランボワーズとバニラのムースをホワイトチョコでコーティングし、薔薇を可愛くあしらってみました」というケーキだったらしく、展覧会の半券で割引になったそうだ。うー残念。
 しょんぼりして、ドゥ マゴは諦めて、もういつもいつもこのパターンなのだけれど、セガフレード・ザネッテイにてカプチーノとなった。

 ちなみに、ルドゥーテはこれだけの作品を残しつつも、晩年は散財癖のせいで、貧乏だったとか。きっと美しいものや美味しいものが好きで、ついつい贅沢しすぎてしまったに違いないと、私は勝手に思っている。でもまあ、今となってはどうでもいいことで(本人は大変だった思うが)、描かれたバラだけが気高く後世に残り続けている。

Rose  実物の絵を限りなく再現したという高品質印刷の画集、Les Roses バラ図譜
 14,700円と高価ですが、あんな素晴らしいルドゥーテのバラが手元に!と、逆に安く感じられます。
 と言っても、私は買っていませんが……中はじっくりと見ました。
 素晴らしい出来栄えの画集です。



 
 

 
 

 

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2008年6月 1日 (日)

おふたりにお会いしました

Photo 5月30日(金)は、有休をとってこのおふたりに会いにゆきました。
 薬師寺からいらした日光菩薩と月光菩薩です。
 国宝薬師寺展
 calvinaさんのブログ に「祈りを誘うかたち」という表現があって、これは見なければ!と思ったのです。

 さて、当日は平日にも関わらず、長蛇の列……なんと70分待ち。
 並び始めて、ああこりゃあ平日の午後だからこそ混む客層だわい……と気づくが、意を決して忍耐強く並ぶことにした。
 70分というのはちょっと大げさなんでは?と思ったのだが、ちっとも大げさではなく、しっかり70分。
 もしかしたら……図っていなかったけれど、80分くらい並んだかも知れない。
 5月下旬とは思えないほどの寒さの中、雨が降らないだけまし、と思いながら。

 でも、それだけの甲斐はあった。
 薬師寺では、光背を背負っているから、後姿を見ることはできないのだけれど、今回の展示では、360度あらゆる角度から拝むことができるのだ。
 その後ろ姿のなんと優美なこと!
 背中のラインと腰のひねりには、なんというか、なまめかしさすら感じた。
 そして、静かな佇まいと穏やかな表情。
 つややかで、滑らかな肌。
 衣の襞に動きがあり、優雅。
 静かなのに、躍動感がある。
 魂が宿っている、というのはこういうことを言うのだろう。
 1300年前、1300年前……と心の中で何度となく呟く。
 いったいどんな人たちが創り上げたのだろう。
 私も本当に「祈りを誘うかたち」だと思った。

↑月光菩薩

 1300年前の日光菩薩と月光菩薩を見ながら、人類は進化しているどころか、退化しているのではあるまいか、など、そんなことを考えるともなく考える。
 現代の私たちがつくったものの中で、そのまま残り続け、1000年後の人々の心を打つような何かがひとつでもあるだろうか?

 NHKスペシャルでは、薬師寺のご住職が、今の不安・不信だらけの世を浄化するために多くの方にご覧になっていただくことにしました、というようなことを仰っていた。

 本当に、ちょっと浄化されたような気持ちになった。

Photo_2                     

                   

日光菩薩→  

*画像は、国立博物館の公式HPからお借りしました。

 

 他にも板に描かれた神像、出土された人形の欠片、吉祥天像などの展示もあり、なかなか見応えがあった。

 奈良にも一度ゆっくり行ってみたい。

 

 ところで、このおふたり以外にも、実は会場で凄いおふたりを目撃した私。 
 ひっそりとオーラを放つふたり連れがいて、あ、誰かなんだけれど、誰だっけ……と一瞬考えた後、すぐにわかった。
 なんと、漫画『陰陽師』の作者、岡野玲子さんと、夫の手塚眞さん(雑誌などで拝見したことがある)。
 上野に向かう電車の中で、薬師三尊は平安時代のもの……というと、安倍晴明と同時代か、などと、ぼんやりと岡野玲子さんの『陰陽師』のことを思い出していたのだ。
 びっくりしつつ、薬師寺展にいらしているのは、実にもっともな感じもしたりして。
 5月20日の時点で50万人突破ということらしいから、数十万人が来場している中で、「偶然」居合わせるというのは、凄いシンクロ率だと思うのだが。
 「『陰陽師』、全巻読みました!」とサインしてもらえばよかったと後から思ったけれど、何も言えなかった(とはいうものの、終盤にさしかかるにつれ、あの漫画、私には理解不能だったのだが:笑)。
 でも、あの場に居合わせただけでも、恩寵を受けたような気持ち。
  私はあの漫画を読みながら、平安の空気をまるで経験したかのように描ける岡野玲子さんという漫画家はいったいどんな人なのだろう……と思っていたので。
 ちなみに、生・岡野さんはご自身が描く絵のように、美しい人でした……(手塚氏はよく目立つ金髪だった)。

 というわけで、なんだかありがたい一日だった。

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2007年7月28日 (土)

アンリ・カルティエ=ブレッソン――知られざる全貌

 先週末は、アンリ・カルティエ=ブレッソン 展<知られざる全貌>を東京国立近代美術館へ観に行った。
 ブレッソンは、1908年、フランス生まれ(来年でちょうど生誕100年)の写真家で、マグナム創設のメンバーのひとり。
 私は中学生くらいの頃から、ロバート・キャパとかの報道写真家の写真――特にモノクロ写真――に強く惹かれる傾向があって、そういう写真集を図書館でよく食い入るように眺めていた。理由はよくわからないけれど、例えば、戦争というものも、話で聞くより、よりリアルに感じられて、写真のなかに自分が入り込んでタイムスリップしているような気分を味わうのが好きだったのだろう。

 ところで、ブレッソンの名前はあまり意識したことはなかったのだけれど、いろんなところで見ていてとても印象に残っている写真のいくつかが、ブレッソンであることを知るようになって、この展示会はぜひ行かなければと思った次第。
 最近は、どうもへたれ気味で(笑)、美術館という所へ足を運ぶことがめっきり減っていたのだけれど、今回は行って本当によかった。
 言うまでもないけれど、やはりオリジナルプリントは素晴らしい。白黒というより、グレーの階調が無限に展開されている感じ。
 

 1930年代~1970年代の写真が多く、正に20世紀というひとつの世紀を駆け抜けていったような人生。
 2004年に95歳で亡くなったブレッソンは、20世紀の、戦争と激動の時代を記録するためにこの世に生を受けたかのようである。
 無名の庶民――貧しい人から豊かな人まで、世の中を動かした人、偉大な思想家や作家や詩人や画家を写真に収め、その舞台はヨーロッパだけでなく、アメリカ、アジア……と、本当に広い「世界」だ。
 肖像写真では、カポーティの若い頃の写真が素晴らしくて、しばらくその前から動けなかった。その人の本質というものを、なぜたった一枚の写真で余すところなく表現できるのか、ひたすら感嘆……正にこれが写真を観る醍醐味。

 そして、ブレッソンが凄いと思うのは、社会の「決定的瞬間」を伝える報道的な役割を担っていると同時に、その写真がとてつもなく芸術的であること。
 構図が完璧なまでに見事なのだ。それは、ブレッソン自身、絵が好きで、自らデッサンなどをよく描いていたことと大きく関係していると思う。
 とにかく、デジタルカメラなんて存在しない時代、きっと一枚の写真を撮るためにシャッターを押す重みは今と随分違ったのだろう。

 とまあ、ブレッソンの素晴らしさは私などが語るまでもないのだけれど……。

 この60年代のカナダの街角で笑っている少年たちは今、もう中年のおじさんだなあとか、ここに確かに存在している1930年代のメキシコの娼婦たちのなかで、今生きている人は何人いるだろうか?などなど、思いつつ観ていると、感慨深い。
 時は流れて人は必ず死ぬけれど、写真というものは、その瞬間を永遠に閉じ込め、記録する。
 そんなことを思うと、なんだか不思議な気分になり、あと100年もしたら今成人している人たちのほぼ全員は間違いなく死んでいるのだな……と思ったり。

Img_0932_1  数多くの写真のなかでも、気に入ったのがこれ。
 会場で売っていたポストカードを複写したものです。
 ○C(クレジット)/アンリ・カルティエ=ブレッソンです。
 時は1938年、フランス。
 ふたつの戦争の狭間の時代で、川辺のピクニックを楽しむ男女。
 この4人の背中の存在感!

 この写真を元に、短編小説でも書けそうです(書けないけど)。
 そして、どんな時代でも、人々はこんなふうにささやかな愉しみを見出して、生き抜いてきたのだと思うと、感動する。
 オリジナルプリントで観ていると、手前のおじさんが注いでいるワインが美味しそうで、1938年がつい昨日のように感じられた。

 8月12日まで開催されています。おすすめです。
 膨大な写真のもと、その全貌を知ることができます。

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2006年12月21日 (木)

大竹伸朗「全景」――夢に出てきそう

 前から行きたかった大竹伸朗「全景」 、いよいよ今週末まで、その日はきっと激しく混むだろうしと、今日(20日の水曜日)は思い切って有休を取り、観に行った。
 快晴ではないけれど、銀色の雲が浮かび、光がやけに透明な空が広がっていた。なんだか美術館日和なお天気。
 スープとフレンチトーストと紅茶のたっぷりのブランチで腹ごしらえをして、ジーンズにスニーカーという疲れない出で立ちで、万全の準備態勢で東京都現代美術館へ。

 美術館へ着いて、すぐ目に飛び込んだのが、これ。
        ↓

Img_0549 これでもう、美術館に入る前から一気にぐっと気持ちをつかまれて、まだ観てもいないのに、来てよかった!と思う。
 これは、会場である東京都現代美術館の外観。
 愛媛県宇和島は、大竹伸朗さんが今、活動の拠点にし、暮らしている土地。
 宇和島駅の古い駅舎が取り壊されるときに、貰い受けたのだそう。



 会場に一歩、足を踏み入れると、とにかくその膨大な作品数に圧倒される。
 スクラップブックのその密度というか強度というか……。Img_0550_1
 スクラップブックを作るきっかけは、ロンドンのアンティークマーケットで購入した、誰か(昔の一般の人だろう)が作ったマッチ箱のラベルを貼ったスクラップブック。それを見て感動し、これをオレがやらずに誰がやる!と思ったそうだ(NHK『新日曜美術館』より)。

 スクラップブックを構成しているのは、外国の昔のB級な写真や絵、ゴミ、キッチュなラベル、と、変なものばかりなのに、彼の手にかかると、大竹ワールドとしか言いようのない不思議でおもしろい、そして力強い何かが立ち現れてくる。

 どこの誰ともわからない、古いヨーロッパの家族写真をびっしりと貼り込んだ作品。
 まるで何か時間の地層を埋め込んでいるような、平面なのに立体的なような……。

 スクラップはその膨大さと密度に、絵はその大きさに圧倒される。
 わかるとかわからないとか、好きとか嫌いとか、そういうのを超越して、「全景」が醸し出すエネルギーに圧倒されるばかり。
 と、圧倒という言葉ばかりを繰り返してしまうが、美術を語る的確な言葉を持ち合わせていないから、もどかしい。
 でも、フツーのオバサンふたり連れも、「凄いわねえ」としきりと感心していたから、それでいいのだ、と思う。

 凄い。圧倒される。エネルギーがある。それもポジティブなエネルギー。
 そんな言葉でしか語れない……ので、解説は、専門家に任せよう。

 彼の作品から受けるエネルギー(=生命力)の源は、彼がアートから離れて、10代の頃、美大を休学し、北海道の牧場で働いたことから来ているらしい。
 「それまでサッカーをやって、絵を描いて、アンディー・ウォーホールがどうの、なんて言ってたのが、いきなり牛のクソ出しでしょう」(NHK『新日曜美術館』より)というようなことを言っていたから。

 東京のゴミを集めた「ゴミ男」と、そこに流れる奇妙なループ音(東京で拾い集めた音)が印象に残った。あと、「ニューシャネル」(これはなんと説明したらよいのか?!)とか、「日本景」などがおもしろかった。ワビサビとは程遠い「絶句景」としか言いようのない(笑)、奇妙な日本の風景たちがテーマ。

 とにかく彼は、ゴミみたいなもの、どうしようもない景色だとか、「ニューシャネル」の、「そう言えばあるよね、こういう昭和40年代風の書体とネーミング」みたいなものとか、錆びた船の廃材とか、フツーの人が見過ごしてしまうような、いや、目にも留めず意識にも上らないものを、掬い上げる。
 そして、他の誰にも真似できない感性と確かな技術で、それらに息を吹き込み、作品にする。そういうことができる人を天才と呼ぶのだろうか。
 作風もさまざまで、とてもひとりのアーティストから生まれたと思えない多彩さ。

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 美術館を出る頃には、日も暮れかかり、宇和島駅のネオンが灯っていた。

 
 

 
 
 
 
 

 ところで、会場で耳に拾った言葉の数々(言葉のスクラップブック?)。

「うちのカミサンの祖先って、落ち武者の末裔だったらしいんだ。で、代々女系で狂う人が何人が出ているらしいんだって。それってさあ、俺に覚悟せえ、ってことなのかなあと」
――30代らしき男性、友人数人らと、「ダブ平、ニューシャネル」という遠隔演奏ノイズバンドのコーナーにて。会話の前後の脈絡は不明。

「あー、圧倒された。今夜、夢に出てきそう」
――20代くらいの女性、出口で、友人に。

女「これ、ほんとに駅みたいだよね」
男「えっ、駅じゃないの?」(どうやらウケねらいの冗談ではなさそう)
女「えーっ、だからこれはね、大竹伸朗が住んでいる宇和島の駅のネオンなのよお」
――美術館の外にて、男女数名のグループ。ここは、木場だってば(笑)。

 今夜は、私も夢に彼の作品が出てきそう。というか、出てきたら嬉しいんだけど。

 この展示会は、24日まで。
 大竹伸朗ファンは、ぜひ!
 それほどの大ファンじゃなくても(実は私がそうだった)、圧倒されに行く価値あり!
 行って観た後には、大ファンになっていること間違いなし。

☆会場では、入場者ひとりひとりに、「ジャリおじさん」のクリスマスカードが配られました。


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