映画

2008年9月 7日 (日)

パリ、恋人たちの2日間

 

2days  「パリ、恋人たちの2日間」 は6月に観た映画で、もうとっくに終わってしまっているのだけれど、とても面白かったので、感想を。

 監督・脚本・制作・編集・音楽と、ほぼすべてを担当したのが、主演もしているジュリー・デルピー。
 ゴダールやレオス・カラックスの映画で注目されるようになったフランスの女優さん。
 たなびくような金髪に、ちょっとベビーフェイスで、まるで宗教画の天使のような美しさを漂わせる女性……と思っていたのだけれど、まさかこんな才媛だったとは!と、驚いた。
 アメリカで暮らすフランス人の写真家のマリオン(ジュリー・デルピー)と、アメリカ人のインテリアデザイナーのジャック(アダム・ゴールドバーグ)のカップル。ふたりがマリオンの故郷パリへ行き、そこでの2日間を描いたもの。
 とにかく、脚本がいい。なるほど、これは「パリのウッデイ・アレン」という感じ。機関銃のように発せられる言葉の洪水。でもそれがウィットとユーモアに富んでいて、小気味よいテンポで進んでいくので、うるさい感じはしなくて、むしろ気持ちがいい。
 字幕でこんなに笑えた映画は久しぶり。
 異文化、異なる言葉のぶつかりあいなどなど、ジャックのパリでの戸惑いの数々。
 アメリカ人というのも自国中心主義な感じがするけれど、それを上回るフランス人の自己中心的で排他的でどうしようもない頑固っぷり、一人ひとりの変人っぷりが、厭味を通り越して爽快ですらある。ほら、日本人って周りのことばかり気にするじゃない? これくらい勝手に生きられたら、ウツ病になんかならないんじゃないの?などと思ってしまった。
 アメリカ人とフランス人、どちらかを美化したりけなしたりするのではなく、ジュリー・デルピーが笑いと愛情を込めて描いているのがいい。どちらも笑ってしまうという感じ。
 とにかく、パリに来てからというもの、ジャックは、かつてパリでマリオンがどのような男性と関係を持っていたのか、気になって気になって仕方ない。たぶん、アメリカにいる間は気にならなかったのだろうけれど、パリに着いて、マリオンの「過去の男たち」を目の当たりにしてしまうと、あることないこと考えてしまい、頭を抱えてしまうのだ。
 マリオンの携帯に届いた、男性からのメールをこっそり盗み読むするジャック。
 でもフランス語ができないので、辞書片手に読もうとするのだけれど、どうも頓珍漢な意味になってしまうシーンには爆笑。
 そんなジャックにマリオンは、「あなたと出会ったとき、処女なわけない!」と叫ぶ(ジュリー・デルピーの実年齢も、この映画の設定でも、30代後半くらいなので)。
 ごもっとも。大人になればなるほど、さまざまな過去があるわけで、まっさらな人なんていないし、逆にそんな人は面白くないわけで、過去がある人ほど深みを増すものなのだけれど、こと恋愛になると、どうも冷静でいられない――。
 という、そんな甘いだけじゃない、ほろ苦さも含んだ味わいのある恋愛映画になっていた(だけど、コメディ、というのがポイント)。
 ある程度年齢を重ねると、恋愛というのは、相手の過去や背景にあるものをどれだけ受け入れることができるか、ということが大きく問われるのだと思う。
 それができる人を、大人、というのかも。
 パリでの2日間、互いに笑ったり怒ったり呆れたりしながら、ラスト、ふたりが出した答えは……これも何か決定的な答えを出すのではなく、観る側にゆだねられているのがとってもよかった。
 ラストシーンで「別れて孤独になって、またパーティーを渡り歩いて、他の誰かを探すの?」(よく覚えていないので、記憶の中で変容しているかも)と言うマリオンのセリフがあって、そう、それってほんと、年を取れば取るほど辛いよね、と共感した。

 それから、観た後に知ったのだが、マリオンの両親役というのが、実の両親だということ。
 俳優一家だということは聞いたことがあったのだけれど、まさかあの両親が本物だったとは! 凄くいい味を出していたので。
 特にお父さんは、知的なのだけれど、それほど裕福ではなく、頑固でウィットに富みすぎて(?)、ついでに下ネタも満載で、ジャックは付いていけない。
 昼食に出されたウサギの肉をめぐるやり取りは、ほんとに可笑しかった。

 いわゆるお洒落なパリという風景や店はあまり出て来なくて(もちろん、この映画の人たちはラデュレなんかには行きません:笑)、マリオンもパーティの時以外は、どちらかと言えば野暮ったいファッションだし、そういう親しみやすい感じもよかったかな。

 あと、ファストフードショップでジャックが出会う、静かで不思議なテロリスト男! こういうエピソードをつくれるところに、ジュリー・デルピーの冴えたセンスを感じる。テロリスト男は、「グッバイ・レーニン」のダニュエル・ブリュール、彼もいい味出してます。

 ところで、思い出すのは、数年前に公開されたジュリー・デルピーとイーサン・ホーク主演の「ビフォア・サンセット」とその前編にあたる「恋人までの距離」という映画。やはりフランス人とアメリカ人が出会って……というストーリーで、「パリ、恋人たちの2日間」はこの2本の映画の続編のようだと思った。
 と思ったら、ジュリー・デルピーは、主演だけでなく、すでにこの映画の頃から脚本も書いていたんですね。びっくり(全然気づかずに観ていた)。だから、ある意味、続編というのは間違っていないかも。
 私は、この2本も大好きで、強力におすすめ!
 フランス人とアメリカ人がウィーンで出会って、恋に落ちるまで――そう、「恋人までの距離」を描いている。互いにとっての異国の地で、会話しながら歩いていくだけで、これといって大きな事件も起きない。
 だけど、面白い。考えてみれば、異国の地で、異国人同士が出会う、というだけで、十分にドラマチック。別れは否応なしにやって来るし、果たして再会は……。難病になったり死んだりしなくても、人の気持ちを動かせるストーリーって、つくれるんだなとしみじみ思う。シナリオライターになりたい若い人がいたら、この2本をすすめたい、と思うくらいの映画だ。

Img_1522_2  左は、1995年の雑誌「SWITCH」。本棚の奥から出てきた。
 わー、私って昔からジュリー・デルピーが余程好きだったのねと、今さらながら気づいたりして。
 この頃、彼女は25、6歳。アメリカに移住して、ニューヨーク大学で映画を勉強していた頃のインタビューがたっぷり載っている。
 読み返してみると、すでにこの頃から、監督もやりたいと言っている。
 十数年をかけて夢を実現したのだ。凄いなと思う。

――映画の仕事もいろいろあるけれど、自分の人生を生きるってこともしなくちゃと私は思うのね。まずは生きることが大切だと――というのは、その「SWITCH」のインタビューから。
 自分の人生をきちんと生きてきた人なのは、映画を観ればよくわかる。
 そして、右は彼女のアルバム。映画公開前にJ‐WAVEの電話インタビューに出演、その時にアルバムを出しているのも知って、その場ですぐアマゾンで衝動買い。
 「ビフォア・サンセット」の中でも、「ニーナ・シモンのライヴへ行ったら、それはそれは素敵だった」というようなセリフがあったので、彼女の音楽センスは信用できるなと思って(ニーナ・シモンをもってくるところが渋い)。
 すごーく際立った曲があるわけではないけれど、ジュリーのちょっと低めの声も心地よく、落ち着いたいい感じのアルバムに仕上がっている。作詞/作曲も彼女自身とのこと。

 今後も、監督・女優としてのジュリー・デルピーがとても楽しみ。

(と終わってしまった映画をあれこれ語ってしまって恐縮です。DVDになったら、ぜひご覧ください。映画や美術展も、観た後にさっと、期間中に報告できればよいのですが、あれも書こう、これも書こうと思っていると、すべて終わってしまっています。終わってしまうと、いつでもいいやとなり……でもまあ、ブログを書くために生きているわけでもないので、いいかなと。ブログ書きくらい、フランス人のように自分勝手で:笑)

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2008年8月14日 (木)

「ぐるりのこと。」――リリー・フランキーさんは菩薩のようであった

 13日の水曜日は、新宿武蔵館のレイトショーで、映画「ぐるりのこと。」 (橋口亮輔監督)を観た。 

Download_img1  「ハッシュ!」がよかったので、期待を裏切られないだろうと思ったけれど、そのとおりだった。
 ある夫婦の日々を、1993年から、2001年にわたって描いたもの(2001年までに設定したのは、監督なりの理由がある。サイトのインタビューを読んでみてください)。
 法廷画家の夫・カナオは、リリー・フランキー、妻・翔子は木村多江。
 なんでもきちんとしていないと気がすまない几帳面な翔子は、生まれたばかりの子どもを亡くしたのをきっかけに、少しずつ心が壊れてゆき、鬱になる。
 その妻を側で見守る・夫カナオ――を演じたリリー・フランキーが本当によかったのだ。
 肩の力がいい感じに抜けていて、テーマ的には結構重いのだけれど、笑わせてくれて、現実の生活って、問題を抱えていても泣いてるばっかりじゃなくて、笑ったり食べたりいろいろあるよね、と。
 とにかくリリーさんは本業は俳優でもないのに、素晴らしかった。俳優ではないからこそなのか? 40代の中年のオッサンなのだけれど、母性みたいなものがあって、なんだか菩薩のようであった。
 鬱の妻を、無理に励ますでもなく、責めるでもなく、ただそのまま、ありのままを受け止め、寄り添う。その眼差しのやさしさ。
「どうして、ちゃんとできないんだろう」と泣きじゃくる妻に(木村多江のリアルな演技も真に迫っていてよかった)、「そんなに何もかも上手くいかないよ」というようなことを静かに言う夫。
 後に明かされるが、彼もまた複雑な過去を持っていて、一見静かな受け身の男性のように見えるが、「逃げない」ことを心に決めた、つまり覚悟を決めた本当に強い人なのだ。 
 そして、法廷画家として、さまざまな事件の裁判の現場に立ち会ってもいる。
 映画では、現実にあった事件の裁判のシーンが出てくる。
 バブル崩壊、地下鉄サリン事件、その前後の数々の殺人事件。
 こうした映画を通して、俯瞰するような目線で見ると、この日本に生きるということは、どんな人だって鬱ぐらいになって当たり前……のような気もする(実際、監督自身、鬱になったそうで、その経験が映画に活かされている)。

 主人公のふたりが私と同世代ということもあり、また私が結婚したのもちょうど1993年で、その後の挫折に至る道――結婚(1999年に離婚)も 仕事も何もかも上手くいかなくて、私もちょっとした鬱状態だったと思う――を思い出すと、まるで自分のことを振り返って見ているようでもあり、妙に胸がざ わつき、激しく感情移入してしまった。

 やがて、妻の翔子は出版社の仕事もやめ、美大出身だった経験を生かして、お寺の天井画を描き始め、少しずつ再生していき、カナオとも笑い合うようになる。Download_img3_2
 その日本画の、四季折々の花の絵がとても美しい。
 世界は哀しい出来事や事件に満ちているけれど、そこにばかり焦点を合わせ、不安い煽られていてもよいことはない、現に花はこうして咲いているし、世界はもっと豊かなはず――そんなメッセージを感じた。

日本社会が大きく変質したバブル崩壊後の90年代初頭に立ち返り、自らの人生と世界を重ね合わせ、「人はどうすれば希望を持てるのか?」を検証したと言 う。
彼が導き出した答えは、「希望は人と人との間にある」ということ。
そうやって苦しみを乗り越えた実体験を反映させ、橋口亮輔はささやかな日常の中にあ る希望の光を、1シーン1シーンをいつくしむ丁寧な演出で浮き上がらせる。
――公式サイト<イントロダクション>より

 日本の社会のありようと、もっと小さな個人とか夫婦のこと――人と人のつながりの大切さ――をとても深く丁寧に、ユーモアいっぱいに描いた慈愛に満ちた作品で、そう、そういうことを私も言いたかったんだ!と、今の私の気持ちを代弁してくれるような映画だった。
 やはり、TVドラマにはない深さ、底力のようなものを感じた。
 希望とは?と問われたら、こういう映画がつくられ、たくさんの人が観に来ていることが「希望」なのかも知れないと思う。

 

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2008年8月10日 (日)

夏休みの始まりは「ミス・ポター」と共に

 今週末から、来週いっぱいまで夏休み。
 ようやく一息、といったところ。
 今日は比較的穏やかな気候で、アパートの隣の部屋から鼾も聞こえず(いつもそれで眠りが浅い)、上階のどかどかと傍若無人な足音も聞こえず、聞こえてくるのは蝉の鳴く声ばかりで、静かな夏だなあと思いつつ、扇風機をつけたり消したりしながら、11時半まで爆睡。
 起きてからも、久々にクーラーなしで過ごしている。
 そういえば、蝉は暑すぎても鳴かないのだとか。
 今まで蝉の鳴き声をあまり聞かなかったので、どんだけ暑かったのかと思う。
(その証拠に、今日は本当に蝉たちがここぞとばかりに狂ったように鳴きまくっている)
 特に、この前の雷と豪雨の前の湿度の高さは異常だった。
 その後の、午後いっぱい鳴り響いていた雷の音は爽快だったが(意外と好きなのだ)、帰りは総武線がストップ、身の危険を感じるほど混んだ中央線に押し込まれて、死ぬかと思った。

 蝉すらも夏バテするような暑さなのに、長期のバカンスもなく、あくせく働く日本人のひとりではあるが、まあ、1週間でもありがたい。

 しかし今年は、連れ合いがこの猛暑のさなか、会社の転勤、自宅引っ越し、引き継ぎ等がちょうど私の夏休み中にあり、会えず……。
 というわけなので、今年は、行きそびれていた病院各種――眼科・婦人科の検診、原因不明の左腕の引き攣れ感を診てもらいに総合病院へ――そして、映画三昧にしようかと思っている。
 映画は、「赤い風船」と「ぐるりのこと」を観に行きたい。
 あとは、HDDにたまっているのと。
 お正月にうっかり消去して空になったのも束の間、瞬く間にパンパンにたまりつつある。

 オリンピックは、開会式がチャン・イーモウの演出だというので、一応見てみた。
 巨大な絵巻物が広がり、そこに映し出される立体的な映像が凄かった。
 人が筆となってダンスをしながら墨絵を描いたり、活版印刷がうねったり、オールを漕ぎながら大航海の様子を表現したり、太極拳風の踊りがあったり、天女が舞ったり、最後は花火で、夢のように美しかった(言葉ではあのスケール感は表せないが)。
 さすが、チャン・イーモウ。
 しかし、きっと競技はあんまり見ないんだろうなあ。
 どうもスポーツは、TVの時間に合わせるのが苦手。
 かと言って、映画のように録画して見ては臨場感ないし。

 Potter

 ところで、今日は「ミス・ポター」 を観た。
 ピーター・ラビットの作者、ビアトリクス・ポターの映画。
 湖水地方の映像がきれいで、これは映画館で観ておけばよかったなあと思う。
 女性が表に出られない時代、年齢を重ねてからピーターの絵本を出したり、あれこれ苦労していたのは知っていたが、契約したウォーン社の編集担当者と婚約していたことは知らなかった。
 母親が「そんな商売人との結婚は許しません!」と言うのが笑えた。
 商売人ってねえ(笑)……ポター家は貴族ではなかったけれど、上流階級だったんですよね。
 今の私たちの目で見れば、彼はポターの才能を開花させた有能な編集者で、そのうえ紳士で、実家も全然貧乏じゃないんだけど。
 格差社会もここまで極まっていると、わかりやすいというか(笑)。
 
 そして、その婚約者は病気で急死してしまうという悲劇が……。
 しかし、その苦難を乗り越えて、自立して家を出て(女が結婚もせず、ひとりで家を出て生きることは本当に大変な時代だったのだ)、ウィンダミアに移り住み、ピーター・ラビットの印税で農場を次々と買い取り、農業(豚を育てたりと、畜産も!)と創作に励み、後に地元の弁護士と結婚する。
 正に、労働と創造の豊かな一生。
 ポター役のレネエ・ゼルウィガーがよくて、ブリジット・ジョーンズより、こういう役の方が似合うんじゃないかな(ちなみに、その婚約者役はユアン・マクレガー)。  
 観ていたら、なんだかクリームティー(イギリス独特のお茶とスコーンのセット)が食べたくなりました。
 エルメのような高級スイーツではなく、素朴なスコーンにジャムとクロテッドクリーム!とそして熱い濃い紅茶。

 それにしても自由に生きるためには、お金=才能が必要なんだよなあ。
 こういう時代に表現することを目指した女性に、私は興味がある。
 ヴァージニア・ウルフとか、少し現代に近づくけれどアガサ・クリスティーとか。
 ビジネスの世界には入れてもらえなかったけれど、表現の世界で羽ばたいた女性は結構いて、皆、興味深い生き方をしている。

 その他、ポターの描くピーターや動物たちが動いて飛び出したりするシーンもよかった。
 アクション映画の過剰な演出は食傷気味だけれど、こんな可愛らしい感じのCGは好感がもてる。
 ピーター・ラビットとポターに敬意を払っているのがよく伝わってくるし、とにかく観た後は、ウィンダミアへ飛んで行きたくなります!

 

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2008年7月 1日 (火)

赤い風船

 気づかれた方、いらっしゃるかなあ……。
 左横にあるブログパーツをクリックしてみてください。
 赤い風船のところ。
 そして、もしご興味があれば、文字のところもどうぞ。

 応援団っていったいなんだ?と思われるかも知れませんが。
 「赤い風船」とは、1956年のフランスの伝説的な映画。
 この夏、「白い馬」という映画と共に、リバイバル上映されるそうです。
 私は、少年が石畳の上で真っ赤な風船を持っている、というワンシーンだけ、とある写真絵本で見たことがあって、それ以来、この映画をいつか観たいなーと思っていたのでした。
 まさか映画館で観られるとは思っていませんでした。

 まるで一冊の絵本のような映画です。
 ストーリーを読むと、ああ、なんだか懐かしいなという気がします。
 たぶん、絵本になっていたのを、子どもの頃どこかで読んだのかも知れません。

 というわけで、応援団の一員となりました。
 梅雨が明けて、夏になったら、銀座へ「赤い風船」を観に行きます。

★こんな映画を観に行く時も、ベスコフのバッグですね、きっと。

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2008年3月23日 (日)

ほころび始めた桜と「初恋」と

 桜がほころび始めた。
 ついこの前までは、桜が咲くなんていうことが信じられないくらい寒かったのに、人の目には見えなくても、桜はちゃんと準備を始めていたんだなあと思うと、感動する。
 今度の週末辺りが見頃だとのこと。

 熱々のミネストローネが以前ほど美味しく感じられない。
 ルッコラのサラダが美味しい――ということは、春なんだなあと思う。

 木曜夜のお楽しみ「鹿男あをによし」が終わってしまった。
 現実からちょっと浮いたああいうドラマは、これからあんまりないだろうな。
 途中、ちょっと冗長なところもあったけれど、それさえもゆるゆると楽しめた。
 You Tubeでは、エンドロールの曲を使って遊んでいるこんな いろいろな映像があって、面白い。
 男声ひとり合唱団とか「風林火山」のエンドロールにこのドラマの曲をかぶせたりとか。
 それが信じられないくらいぴったりシンクロしていて、爆笑。 
 この曲、こうやって聞くと、とても印象的なのだ。
 よくできた曲というのか。 
 それにしても、 皆、いろんなことを思いつくなあとひたすら感心する。

 今日は、お昼を食べながら、映画「初恋」 を観て、夜はNHK大河の「篤姫」と、一日中、宮崎あおいを見ていたような気がする。
 「篤姫」は毎週欠かさず観ているし、もはや他人とは思えず、娘とか姪とか、家族か何かのような感じ(笑)。

 

Hatsukoi_2  ところで、 「初恋」は、3億円事件をモデルにした話。
 童顔の宮崎あおいとこの事件と、「初恋」というタイトルがどうしても結びつかなかったのだが、なるほどこういう展開なのかと、観ていると凄く納得。
 3億円事件の実行犯を女子高生にするという想像力に――あり得ないとしても――脱帽。 
 あの時のお札って一枚も使われていないというのは事実なのかな?
 だとしたら、その事実にとっても心惹かれる。
 この映画での捉え方のように、お金のためではなく、権力への抵抗としての犯罪だったのかなと……。

 昔、やはりこの事件をモデルにした「悪魔のようなあいつ」という沢田研二主演のTVドラマもあった。
 退廃的な、実に実に魅惑的なドラマになっていた。
 この事件には、何か人の心を掻き立てるものがあるのだ。
 誰も傷つけず、壊さず、整然と行われた不思議な強盗事件。
 その犯人は、この日本で今もどこかで生きているのだろうか。
 もしかしたら、今日、電車のなかで私の隣に座った人かも知れない……。
 そして、映画の 「初恋」では、3億円事件と共に、もうひとつの主人公として60年代の時代そのものが描かれている。
 新宿界隈の、当時の風俗がよく出ていたと思う(私は当時、子どもだったので実際に体験したわけではないが)。
 また、今とは違う、あの頃の貧しさにちょっと懐かしさを感じたりもした。 
 しかし一方で、やや類型的な描き方かな?という気もした。
 学生運動とかアングラとか、女たちの蓮っぱな感じとかが、いかにもで……。
 というわけで、映画全体にはちょっとだけ物足りなさも感じたが、宮崎あおいはよかった。
 可愛いだけじゃなくて、翳りみたいなものもあるんだなと。
 彼女は息の長い女優になるんじゃないかな、なってほしいなと思う。
 
 あと、今週末は、天気がいいのでひたすら洗濯して、原宿の某ランジェリー店のセールへ行って、原宿の異常な人の多さに圧倒されたり。
 竹下通りの入り口には、外国人(ヨーロッパ人っぽい)の撮影隊がいた。
 外国人には、この雑踏と怒涛のような消費の娯楽街はどのように映るのだろうか。
 
 そんなこんなで、週末も終わり。
 明日からまた小忙しい毎日が始まる。 
 でもって、相変わらずアイロンかけがまだなので、この辺でおしまいにします。

(タイトルだけ見ると、とってもロマンチックなネタのようだが……笑)

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2008年3月 1日 (土)

バベル

  Babel_2 昨年、アカデミー賞で多くの賞を受賞したバベル を観た(WOWOWにて放送)。
監督は、メキシコのアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトウ。

 一丁の猟銃をめぐって思いがけぬ事故が起こり、そこから、モロッコ、アメリカ、メキシコ、日本に生きる人々が別々の場所でシンクロしながら、不思議なつながりを持って展開してゆく。

 主人公はひとりではなく、それぞれの登場人物の、それぞれの立場による、多様な視点で描かれているところがいい。
 元はと言えば、あるモロッコの兄弟たちが銃を手にしたことによる浅はかな行動が生んだ事件で、それは決して肯定されるべきものではないが、その背景には圧倒的な貧しさがあり、一概に加害者とは言い切れない、彼らもまた被害者ではないかという、ぎりぎりな感じの切なさが漂う。
 銃で撃たれ、「被害者」となったアメリカ人観光客の夫婦の妻は、私の大好きなケイト・ブランシェットが熱演。
 夫はブラッド・ピッド(この映画で見ると、だいぶ、ふけた感じがした)。
 ぎくしゃくしている夫婦関係を修復するために、モロッコへ旅に出たのである。
 なんというか、中近東にいる白人――たぶん、日本人もそうだと思うが――というのは、とてつもなく愚鈍に見えてしまうのはなぜなのだろうか。
 とにかく、ひとりの白人女性が撃たれたことにより、テロの疑いが駆け巡り、周り中が、いや世界中が動き出す。
 遠く離れて、この夫婦の家の家政婦(兼乳母)であるメキシコ人女性は、息子の結婚式に出席したいがために、夫婦が旅行中、彼らの子どもたちを連れメキシコへ向かい、不法入国させてしまう。
 そこで、思わぬトラブルと悲劇が待ち受ける……。
 そしてまた、遠く遠く離れた日本の東京では、ひとりの聾唖の女子高校生チエコがいて、彼女の父親(役所広司)がそのモロッコでの事件の鍵となった、猟銃の持ち主であることが判明する。
 女子高生役には、アカデミー助演女優賞にノミネートされた菊地凛子。
 私は、アカデミー賞授賞式でシャネルのドレスを身にまとった彼女の妖艶な姿を先に見ていたので、女子高生役というのがどうもピンとこなかったのだが、映画の中ではちゃんと、ルーズソックスを履いた女子高生になっていた。
 アカデミー助演女優賞ノミネートというのも納得の、凄くいい演技をしていた。
 眼に力がある俳優は、伸びそうな気がするけれど、彼女がまさにそうだ。
 とにかく、「孤独」というものをこれほど強く訴えかけることができる日本の女優は、他に見たことがない。
 愛されること、人と触れ合うことを乞い願いながらも、その術がわからず、若い刑事(舞台出身の二階堂智、彼もよかった!)の前へ、全裸で現れるシーンは胸に突き刺さるものがあり、なんだか泣けてきた。
(だけど、いい加減、こういうシーンでぼかしを入れるのはもう、そろそろやめてほしい。監督が描きたかった本意を歪め、かえって猥雑になるだけで、観ている方も腹が立ち、作品への没入度が薄れる)

 ネタバレですが――撃たれたアメリカ女性は、出動されたヘリコプターで救出され、奇跡的に一命をとりとめる。
 モロッコ人の兄弟たちは、警察に追われ、発砲していない兄の方が撃たれ、死んでしまう。
 メキシコ人女性の家政婦は、夫婦の子どもたちは無事だったものの、アメリカでの不法就労者であることがばれ、メキシコへ強制送還されてしまう。
 子どもに「あなたは悪い人間なの?」と問われ、「私は悪い人間じゃない。ただ、愚かなことをしてしまったの」という言葉が忘れられない。
 アメリカ人夫妻は被害者であることには違いないが、結局、多くを奪われるのは、モロッコ人であり、メキシコ人である。
 夫婦関係を修復するために「エキゾチックな旅」に、子どもを置いてのこのこ出かけて行くこと自体、豊かさの証しというか、愚かさというか傲慢な感じがどうしてもしてしまう。
 猟銃を持って家畜の世話をしなければならない10代前半のモロッコの少年たちや、不法入国して働かざるを得ないメキシコの女性との厳しさとは、次元が違う。
 圧倒的な不均衡というか、格差というべきか……。
 そして、何の関係もないようでありながら、遠くで何らかの形で関与しているのが日本人なのだ。
 
 そんな、今の世界のあり方の縮図そのものに感じられた。
 といって、誰かを、どちらかの国のあり方を声高に批判しているわけではない。
 ただ、そういうあり方を静かに伝えているだけだ。
 静かだけれど、残酷な映画だった。
 タイトルの 「バベル」とは、バベルの塔から。
 「言葉(心)が通じない」といった意味が含まれているのだろう。
 でも、チエコと刑事の間には、確かに通じる瞬間があって、物語の中ではそれがささやかな光になっている。
 観た後は、何か胸の内にふつふつと湧き上がってくるものがあり、誰かに何か伝えたくなる映画だった。

 それにしても、「安全な街」で、モノに溢れた「平和な日本」のシーンが、悲しいような、やたら孤独の影が深いような、やけに疲れに満ちているように見えた。
 それでいてどこか懐かしいような、温かいような、まるで外国人の目で、日本を見ているような不思議な気持ちになったのだった。
(外国人が日本を撮った映画にありがちな、パターン化された、頓珍漢なイメージにはなっていなくて、よく描かれていたと思う)

 モロッコの砂漠や山岳地帯、メキシコの広大な荒野、対照的に密な感じの東京の街と、風景の映像も素晴らしく、音楽もよかった。
 決してハッピーな娯楽作品ではないが、見ごたえのある映画が好きな人にはおすすめ。 力作です。

 
 

 

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2007年11月18日 (日)

ショコラ

 Chocolat この週末は、「ショコラ」 を観た。もう3回目くらいになる。
 フランスのとある村に、ちょっと不思議な雰囲気の母子がやって来てショコラの店を開く。
 
 今でこそ、ショコラティエなんていうと、憧れの職業かもしれないけれど、この映画のなかでは、人々を快楽に誘い、堕落させる悪魔(!)のごとき扱いで、皆に疎まれる存在として描かれている。
 その村は教会の力が絶大で、禁欲的な生活を強いられているからだ。
 小さな村の家並み、母子の赤いマント、お鍋の中でかき回されるとろりとしたカカオ、川辺にやって来るジプシーたち……と、御伽噺のような舞台だけれど、物語はわりと辛辣。
 不必要なまでに禁欲的な村長は、威厳を通り越して、滑稽ですらある。
 でも、彼女のつくるショコラは、官能的なまでに美味で、やがて村の人々の心を溶かしてゆく……というのがとてもいい。
 「バベットの晩餐会」のチョコレート版といった感じのストーリー。

 食べものの美味しさというのは、肉体的な快楽=官能性と通じ合っていると思う。
 「とろけるような」とか、「うっとり」とか、そういう言葉は、両方に当てはまる。
 好きな人同士が、「食事でもいかがでですか?」と、まず食べることを介して親しくなっていくのは、当然と言えば当然のことかもしれない。
 食事なんかどうでもいいから、この国の政策の貧しさについて語り合いませんか?と誘う人はいないわけで。どんな状況であれ……。

 とにかく、この映画を観て、チョコレートを食べたくならない人はいないはず。
 私は、高級ショコラより、映画のなかでジュディ・デンチが飲んでいたチリペッパー入りのホットチョコレートがむしょうに飲みたくなった。
 そこで、昨日、荻窪のグルッペで貿易屋珈琲店の黒糖ココア というインスタントココアを見つけて買ってきた。
 沖縄の黒糖とココアと珊瑚カルシウムとミルクパウダーが混ざったもので、1袋700円ほど。250gも入っているから、お得。
 はじめ少量のお湯でペースト状にしてから、お湯を注ぐだけなので簡単だし、ミルクを使わないのでそんなに高カロリーじゃないし。
 これに、チリペッパーをひと振り。なかなか美味しい! 
 私はこの映画でホットチョコレート&チリペッパーという組み合わせを初めて知って驚いたのだけれど、これが意外とマッチする。
 甘さとコクのなかに、ピリッとした辛味――だまされたと思って、ぜひお試しあれ。

 主演は、ジュリエット・ビノシュ、ジュディ・デンチ、ジョニー・デップと名役者揃い。
 かつて、「生意気で大根足!」などと、中野翠にボロクソに言われていたジュリエット・ビノシュ。私もその意見にちょっと賛同しかけたのだけれど、この映画あたりから、また好きになってきた気がする。
 レオス・カラックスの映画でデビューしたけれど、カラックスの方はあまり噂を聞かない。
 どうしてるんだろう? ビノシュとは一時期、恋人同士だったらしいけれど、彼女の方が出世したなあ。

 給料日前の週末、連れ合いとも会えない時は、こんなふうにHDDに残っている映画を観てひっそりとすごすことが多い(まあ、給料日後も、わりかしひっそりとしてる私ですが:笑)。
 それから、昨日はとっても寒かったので、今シーズン初めてミネストローネをつくった。
 通勤途中にある新宿の花園神社では、酉の市の準備が着々と進められている。
 湯たんぽも始めた。
 冬だなあ。今年もあとわずかだなあ、と思いつつ。

 さて、冷えてきたし、チリペッパー入りのホットチョコレートを一杯飲むとしよう。

  

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2007年6月24日 (日)

ピアノ・レッスン――映画にまつわるちょっとシリアスな思い出

 好きだとか影響を受けたとか、そんな言葉では言い尽くせないような映画に、まれに出会うことがある。
 私は最近、しきりとある1本の映画のことを思い出している。
 Piano
 オーストラリアのジェーン・カンピオン監督のピアノ・レッスン
 原題は、THE PIANO(1993年/日本公開は翌年だったかも?)。
 未婚の母であるスコットランドの女性エイダが主人公(ホリー・ハンター)。彼女は話すことができず(子どもの頃に話すことを自らやめてしまった)、ピアノと幼い娘(アンナ・パキン)だけの小さな宇宙に生きている。
 当時(明らかにされていないが19世紀末くらい?)、本当にそんなことがあったのかどうか、海を越えて、未開の地ニュージーランドの農夫(サム・ニール)の元へ嫁ぐことになる。もちろん、ピアノも一緒だ。しかし、夫はピアノを運ぶことを拒む。

 海辺に置き去りにされるピアノ――という、現実にはあり得ないシーンが、とても美しかった。

 そんな経緯もあり、エイダは夫になかなかうちとけることができず、夫の方も性的に不能だったりして、ふたりの距離は開くばかりになる。
 そこに現れるのが、夫とは対照的な野性的な魅力をもった男性ベインズ(ハーベイ・カイテル)。ベインズは、エイダのピアノを引き取り、彼女に「黒鍵の数だけ自分にレッスンをしてくれたら、ピアノを返す」と約束する。ピアノのレッスンを重ねながら、やがてふたりは自然と引き寄せられるように関係をもつようになる。
 彼は、エイダをまるでピアノを弾くように愛する。かたくなだった彼女の心と体は少しずつ溶けてゆく。
 一方、母親を愛しているが故に、ベインズに母を取られてしまったかのように感じていた娘は、母親の不貞を義理の父親に密告してしまう。そして、そこに待っていたものは……。

(ネタバレですが――
 エイダがピアノをどれほど愛していたか理解していたからだろう。夫は、斧を振り上げ、エイダの指を切り落とす……という、極めて残酷な代償が待っていた。
 恐ろしいシーンである。
 その後、エイダは夫と別れ、ベインズと娘、そしてピアノを伴なって、新しい土地へ行くことになる。
 その道中、船に乗せたピアノが海へ落下する。ピアノを縛っていた紐に、彼女もからまり引きずられ、ピアノと一緒に海へ沈んでゆく。
 エイダはピアノと一緒に沈んでしまう、死んでしまうのだ、と思った瞬間、彼女は見事に紐をすり抜け、浮上し、海面から顔を出し、深呼吸をする。
 海底に沈んでゆくピアノ。

 すべてのシーンがあまりに象徴的で、なんだか「よくできすぎている映画」という気がしつつも、初めて観た時の気持ちの、胸騒ぎというか心のゆらぎのようなもの、上手く言葉にできない「痛み」のような感覚は、未だにはっきり覚えている。
 映画館の暗闇のなかで、ひとり、スクリーンに向かいながら、「私もいつか必ず離婚するだろう」と、直感したのだ。
 「ピアノ・レッスン」を観た頃、結婚生活はこのままでいいのだろうか?と、悩んでいた時期だった。
 できれば先送りにしたいような、直面したくない直感だったが、それは頭で考えてというより、天から降りてきたような確信的なものだった。

 指を1本、失うこと。
 自分の分身であったピアノを海底に捨ててしまうこと。
 そんな代償を私も払うのだろうかと怯えた。

 私はかなりその代償を払うのを恐れていたらしい。離婚したのは、それから5年以上経ってからのことだ。
 離婚を後押ししたものは、他にもあるけれど、あの時、「ピアノ・レッスン」を観ていなかったら、どうだったろう……。
 私は直感したとおり、「指を1本失うくらい」の代償を払うことになり、それは今でも続いている。
 後悔はまったくしていない。でも、好きな映画は繰り返し観る方なのだが、「ピアノ・レッスン」は、その後1回くらいしか見返していない。
 Piano2マイケル・ナイマンの音楽も素晴らしく、サントラ盤は一時期よく聴いていたが、映画そのものを見返すのはなんだか怖いような気がするのだ。
 
 だから、おもしろいとか楽しいとかきれいだとか、心地よさだけではない、心をえぐられるような、と同時に思い出深い映画だ。

 思えば、私はピアノにひきずられながら、随分長い間、海底に沈んだままだったような気がする(もう人魚か?!っていうくらいだ)。
 
 最近、ようやく海面を照らす光に導かれ、浮上できたように思う。
 やっと、深呼吸ができたような……。
 安定した仕事に就けたのも大きな要因だし、今年になってから私のことを大事に思ってくれる人とも出会えたのも大きい。
 離婚後も、出会ってはやっぱり違う、また違った(そもそもこのブログは、そういうすったもんだのあれこれで始まっている/苦笑)……の繰り返しだったけれど、やっとこれからの人生の「連れ合い」と呼ぶに相応しい人に巡り会えたように思う。直感としてそう思う。
 あの日の直感も正しかったので、自分の直感は正しいと信じることにしている。

 だからもう悲しむことも、過去を振り返る必要もないんだよと、自分で自分に言い聞かせているのだけれど、それでもやはり、あの映画を観た日のことは忘れられない。
 いや、忘れる必要もないのだろう。そういう、「ちょっとシリアス」な思い出と共に生きていく。それでいいんだと思う。だからこそ、今が幸せに思える。

 指を切られ、義指をつけたエイダ。彼女がピアノを弾くたびに、義指がコツコツと鍵盤に当たる音がする。 
 でも、それこそが、かけがえのない彼女自身の音なのだ。 

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2007年5月14日 (月)

輝ける女たち

 ル・シネマが日曜の最終回は1000円というのを知り、さっき、日曜の夜の街へ映画を観に出かけてきた。

 水曜のレディスデーは激しく混むし、それに平日は最終回になかなか間に合わないし、眠くなるし……で、最近はもっぱらWOWOWの録画を自宅で観るばっかりだったから、この日曜最終回1000円というのは、いいなと思う。
 もちろん、今日は、観たい映画もちょうどやっていたので。

 Img_0822 カトリーヌ・ドヌーヴ、エマニュエル・ベアール、ミュウミュウといった豪華な女優たちが主演の輝ける女たち (原題は、LE HEROS DE LA FAMILLE)。
 観終わったあとも、なんだかとってもいい気分なので、洗った髪が乾くまでの間、ミニボトルの赤ワインをちびちび飲みながら、サクッと書き留めておくことにした。

 物語の舞台は、ニースの「青いオウム」というキャバレー。
  経営者のガブリエルは、女好きで、それでいて女装して店に出たりもするユニークなキャラクターで、皆に愛されていた。
 そのガブリエルが急死し、今まで疎遠だった家族が呼び集められ、彼の遺言により、家族の一人ひとりが今までの人生を見直し、少しずつ変わっていくというストーリー。
 エマニュエル・ベアールは「青いオウム」の歌姫(という役柄が納得の美しさ。彼女も40を超えているはずなんだけど、ますます凄いです)、カトリーヌ・ドヌーヴとミュウミュウはガブリエルの元妻という役。
 3人とも存在感たっぷりで、彼女たちが出てくるだけで、なんだか嬉しい。
 本当に美しいんだもの。それは、顔の造作やスタイルがどうのこうのという次元ではなく、存在から滲み出る輝きのようなもの。そういう意味では、この「輝ける女たち」という邦題は、合っているのかも。
 カトリーヌ・ドヌーヴとミュウミュウも年をとって、フェイスラインもちょっとたるんでいるけれど、年齢相応という感じで、ハリウッドの女優のように整形やアンチエイジングに血眼になったりしないんだろうなという余裕を感じさせる。
 とにかく、カトリーヌ・ドヌーヴの美しさといったら!

 「クィーン」のヘレン・ミレンも魅力的だったけれど、こんなふうに年を重ねた女優さんが活躍しているのを観るのは、目と心が潤う。
 フランスの女優さんは、魅力的というより、魅惑的。
 それから、キャバレーのインテリア、衣装、メイクなどは、1930年代(1940年代?)風でとても素敵だった。で、彼女たちの日常着はシンプルで、あるいは70年代風だったりして、それがまたカッコよくて……。
 映画全体の芳醇で艶やかな感じは、やはりイギリス映画にはなかなか出せない味わいで、フランスなんだよなあと思わせる。 

 ところで、久々のBunkamuraのル・シネマだったけれど、ここの地下にあるカフェ、ドゥ・マゴの辺りは、『本格小説』で、よう子ちゃんと太郎ちゃんが逢瀬を重ねる場として使われている。
 ふたりが買い物をしたフェラガモは、現在はエルメスに変わっていた。
 『本格小説』には関係ないけれど、東急本店の向かいには、よさそうなビストロが新しくできているのを発見。
 そんなのを横目で見ながら、ひとりで日曜の夜にふらっと映画に出かけるのも、ああ自由!という感じで、シングルの醍醐味なのだけれど、今日の映画は、できれば好きな人と観て、そのあとビストロなんかでワインを飲みながら食事して映画の話をするのが相応しいものだったなあ、なんて思う。

 でもまあ、この日曜最終回1000円は、老若男女問わずなので、おすすめ。 
 珍しく、いい感じの日曜の夜だった(いつもは、軽く憂鬱な感じですごしています/笑)。

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2007年5月13日 (日)

THE QUEEN

 

Img_0809  先週の連休に、「クィーン」を観た。
 1997年8月30日、ダイアナ元皇太子妃がパリで交通事故を起こし、死亡。
 その直後、エリザベス女王が葛藤を抱えながらどのような日々をすごしたか、当時政権を握ったばかりのブレア首相との関わりを中心に、1週間にわたって描いたもの。
 現役の女王であるし、いい加減なことは描けないだろうし、どのように創ったのだろう?と不思議だったのだけれど、パンフレットにある脚本家のインタビューによると、以前創ったブレア首相をテーマにした映画で、関係者に取材し信頼関係を得ていたので、今回もそんなふうに王室や首相関係者などにきちんと取材を重ねたうえで、創ったそうだ。

 初めは、ダイアナは民間人に戻ったのだから、王室は関係ないと一線を引いていたエリザベス女王だが、ブレア首相のアドバイスにより、国民の感情を無視できないと判断、追悼のスピーチをすることを決意する。 
 また、終始、母親を失ったふたりの王子を守ろうと心を砕いているところが、印象的だった。

 とにかく、ヘレン・ミレンの女王ぶりが素晴らしい。
 単なるそっくりさんではなくて、エリザベス女王の内面を見事に表現していた。感情に流されない毅然とした対応から立ち居振舞いに至るまで、すべてが。
 ヘレン・ミレン自身も演技している最中は、鏡の前を通りかかると「いったいこの人は誰かしら。あらいやだ、わたしだわ」なんて思い、どこかで女王の写真を見るたびに「ここにいるのはわたしじゃない。このとき、わたしは何をしていたのかしら」とまで思うようになったらしい。
 確かに、映画を観ているこちらも、ヘレン・ミレンが演じている女王を観ているというより、女王そのものに思えてきて、あら、本物のエリザベス女王って本当はどんな顔だっけ?なんて、思ってしまうのだった。

 今思うと、ダイアナへの世界的な熱狂は異常だった。
 脚本を書いたピーター・モーガンは「彼女は感情的に混乱した不安定で悲劇的な人生を送った女性として受け止めれられていて、もはや偶像的な存在とは見られていない」「結局彼女は英国の何ものも変えることはできなかった」と語っている。
 本当にそうなのだろう。
 彼女はあまりに華やかで美しかったし、亡くなったのも離婚からわずか1年後で、36歳という若さで、美しさの絶頂期だったから、あれだけ騒がれたのだろうけれど……まあ、それだけのことだった、ということだろう。
 あのロイヤル・ウェディングを、高校から飛んで帰って来て、テレビの前でかぶりつきで見ていた私ですが……年を重ねてドライ(?)になったもんです(笑)。

 それにしても、こんな映画が創られるなんて、英国の王室ってオープンだなあと思う。
 この映画でも、労働党のブレア首相は、自分とは価値観が違えども、女王のことは尊重しているのがよく伝わってきた。 
 階級や立場や価値観の違いを超えて、互いを尊重しつつ、つながっていくのが大人の社会なんだろうな……と、フリアーズ監督のメッセージがこんなところに込められている気がする。 
 随分前に観て、やはり凄く好きだったフリアーズ監督の「マイ・ビューティフル・ランドレット」も英国で暮らす移民と英国人男性がゲイのカップルになり、ふたりでランドレット(コインランドリー屋)と開くという物語だった。 

 スコットランドのお城のシーンもきれいで、女王が自らランド・ローバーを運転するとか、意外な一面も見えて、おもしろかった。
 今までダイアナばかりに光が当てられ、あまり正面きって語られることのなかったエリザベス女王に対する、新しい見方を提供してくれる興味深い映画だった(だけど、この映画の中でも、チャールズ皇太子は存在感がなかった。偉大な母と美しい妻に挟まれて、いろいろ辛いことも多かったのであろうと想像させる描き方/笑)。
 王室廃止論もあるそうだが、当分はなくならない気がする。
 無駄、と言えば無駄なんだろうけれど、歴史のある美しい無駄は、それなりに意義があるのではないかと……。

 

Img_0819  2002年、エリザベス女王戴冠50周年を記念して販売された、Golden Jubileeという紅茶。
 当時、新宿伊勢丹で購入。
 ちなみに、Whittardというブランドでダージリンとアッサムのブレンド。
 でもそれほどおいしくなかったような記憶が(笑)……このブランド、日本の水には合わないんじゃないかと思う。

 缶は未だに大事に飾ってあります。やっぱり、私って英国王室ファン?

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