金髪のヨハネス
7月4日に再放送された、BS20周年ベストセレクション「金髪のヨハネス」というドキュメンタリー番組を見た。
1997年の放送だが、この手のものはだいたい見るほうなのに、なぜ見なかったのかな?と思ったら、当時、BSを見られる環境にいなかったことを思い出した。
12年後の今、見られて本当によかったと思う。
ナチスドイツがつくりだした、秘密組織レーベンスボルン(生命の泉)。“金髪”、“青い目”、“長身”という特徴を持つ、アーリア系人種による国づくりを
進めていたナチスドイツ。
レーベンスボルンは、ドイツ人男性とアーリア系女性との婚外交渉により生まれた子どもをドイツ各地の施設で育てるというナチの人
種政策によりつくられた組織だ。
現在ドイツのミュンヘンで暮らすヨハネス・ドリガーさんもこの政策によって生まれた子どもの一人。ドイツ人兵士の父とノル
ウェー人の母との間に生まれたが、生後すぐに親から引き離され、レーベンスボルンの施設に送られた。本当の親の存在すら知らないまま生きてきたドリガーさ
ん。
両親のその後の人生を辿ろうとするヨハネスさんを取材したこの番組は、丹念な取材と緻密な構成が評価され、ギャラクシー賞選奨を受賞した。この番組を
振り返り、知られざるレーベンスボルンの実態と国の政策によって翻弄されたドリガーさんの自己回復の試みについて考える。
アウシュヴィッツをはじめ、ホロコーストに関しては多くのことが公開されているが、この秘密組織、レーベンスボルンについては、あまり知らされていない。
日本人ではこの番組で初めて知ったという人が多いのではないだろうか。
私も、当時のナチス・ドイツでは、ヨーロッパから金髪、碧眼の子どもをさらって……という話はどこかで読むか聞くかしたことがあったが、これほど大きな組織で行われており、さらうだけでなく、生ませるという計画まで実行されており、その後、そういった子どもたちに大きな影を落としたことにまでは思いが及ばなかった。
レーベンスボルンに連れて来られた子どもたちの写真。
涙をいっぱいに浮かべている小さな子もいて、見ているのが辛かった……。
この番組に登場するドイツ在住のドリガーさんは、自分の中に何か大きな欠落感を抱えており(幼少期の記憶が抜け落ちている)、それがわからないまま生きてきて、ある日、レーベンスボルンの出身であることを知らされる。
そこから、自分の根源を知るため、父と母を探す旅が始まる。
ノルウェー人の母親は生まれてすぐ息子とは引き離され、息子のヨハネスはレーベンスボルンへ(名づけたのも母親ではなくこの施設)、父親はあちこちの戦地へ飛ばされ、消息を絶つ。
ドリガーさんは、施設を転々とさせられ、戦後はドイツ人家庭の養子に迎えられ育つ。
過酷な出自を知っていく過程ではあるが、しかし、いくつかの真実がドリガーさんの心を救う。
自分は単なる政策によって生まれた子どもではなく、両親が愛し合っていたこと、ドイツ兵だった父はノルウェー人の母と結婚するつもりでいたこと、母親は息子にずっと会いたがっていたが、養父母に止められていたこと、母親は晩年に至るまで自分の姉に息子のことを話していたこと(あいにく、母親は彼が訪ねる1年前に亡くなっていたそうだ)。
番組では、レーベンスボルンで育った子どもたちの調査をした育児学者も登場し、恐るべき実態が語られていた。
その施設で育った子どもたちは、一見、ちゃんと成長しているように見えるのだが、普通の子どもとは異なることがすくわかったとのこと。
人に怯えるといった情緒の不安定さや生育の遅れに加え、著しい言語能力の遅れが目立ったそうだ。
家庭を知らず、生まれた時からこういった施設で育ち、親との1対1の親密な関係なしに生きていると、言葉を失うのか……と改めて、その事の大きさ、深さに慄然とする。
また、「さらわれた」子どもたちも多くいた(この場合、金髪、碧眼であったことが悲劇に)。
ノルウェー(北欧に優秀なアーリア人種が多いと考えられていた)、ポーランド、チェコなどからいきなり連れ去られ、親と引き離され、親しみ馴染んだ文化からも切り離され、突然母語で話すことを禁じられ、ドイツ語を強制されれば、そうなるのも当然という気もする。
自我ができあがった大人ならまだしも、幼い子どもである。
(約20万人の子どもがレーベンスボルンにいたが、ドイツ敗戦後、母国へ戻れたのはたった4万人ほどらしい)
成長後も追跡調査をしてみると、成人後も情緒不安定で、仕事も転々としている者が実に多かったそうだ(番組では語られていなかったが、たぶん、成人後、自殺した人も相当数いたのではないかと私は想像する。事実はわからないが……)。
つまり、ナチスが夢に描いた、アーリア人種だけによる優秀な民族の大量生産――まさに工場でモノを生産するかのような計画である――は、まったく逆の結果を生んだのだ。
レーベンスボルン――“生命の泉”というネーミングが、あまりにも皮肉である。
……という事実を知らされると、レーベンスボルンの子どもたちに限らず、これはもう理屈抜きに、ひとりの人間が大人になり、人生を歩んでいくためには、家庭というものの存在がどれほど大きいか、ということがわかる。
実の両親が何らかの事情でいないとしても、その子を心の底から愛してくれる人や環境があればよいのだと思う。
そして、何より、子どもにとって一番の栄養は、食べものだけではなく、心穏やかに過ごせる、自分はここにいてよいのだという安心感、安定した環境である。
ところで、このドリガーさんの人生には、さらに悲しい事実があった。
彼にはふたり娘がいたのだが、長女は20歳の時に妊娠したまま自殺、その後、次女は幼い息子を置いて家を出てしまったという。
彼は、この家族の悲劇に自分の生い立ちが関わっているのではないかと考えたのも、自分の根源を探る旅の動機のひとつであったという。
それはまた、残された幼い孫を育てていくためでもあった。
ドリガーさんの妻の話によると、友だちのようなとてもよい父親だったが、自分の心の内をさらけ出さないところがあるということだった。
ドリガーさんは心に蓋をして生きてきたのであり(というより、そうしないと生きられなかった)、それが第三者(特に実の娘)にとっては心の壁と感じられ、核心に入っていけないもどかしさ、虚しさに感じられたのかも知れない。それが、自殺や子どもを置いて家出ということにどう結びつくのか、そう簡単に因果関係を説明できるものではないだろうが。
それに、そういう人間になったのにも彼個人のせいではない。
なんと人生とは残酷なものか……。
辛いこともあったけれど、その後は幸せに暮らしましたとさ――とはならないのである。
前述の育児学者も、単に言葉を話せるようになることではなく、心の内を話せることこそが重要なのです、というようなことを語っていた(レーベンスボルンの子どもたちの言葉の遅れについて)。
そして、ドリガーさんは旅の最後、父親の最後の記録として残されているラトビアの地を訪れる。
未だに当時の塹壕がそのまま残る雪原の荒野を歩きながら、父をはじめ多くの兵士たちがどれほど辛く、絶望的な思いを噛み締めながら虚しく死んでいったのか……。
そうしたことに思いを馳せることができ、ようやく彼は自分の根源について納得するのである。
今の日本では手軽に使われ、やや手垢の付いた言葉になってしまった感があるが、「癒される」という言葉はこういう時のためにあるのではないだろうか。
そして、それは自分の根源を探るという、深くて暗い井戸の底に下りていくような孤独な作業と背中合わせなのだと思う。
人生は残酷ではあるが、美しくもある。
ホロコーストの生存者、『夜と霧』を記したV・E・フランクルの、もうひとつの著書『それでも人生にイエスと言う』というタイトルの言葉を思い出す。
ドリガーさんはこの旅によって、不条理な人生になんとか「イエス」を言えたのではないだろうか。
再放送終了後、この番組について、その後の補足があった。
ドリガーさんは、番組後、ドイツで『金髪のヨハネス』という本を出版、昨年の5月に他界されたそうだ。
それから、番組の中で、5歳だった孫のマティアス君。
ドリガーさんが長期間出かけるというと、大泣きして悲しんでいた。
きっと、母親に置いていかれたことが甦ったのだろう。
そしてその泣きじゃくる姿が、汽車に乗るとどこかに連れ去られるのか?と、怯えて泣き叫んだというドリガーさんの幼少期の頃とそのまま重なり、胸をつくシーンであった。
で、そのマティアス君が現在は、身長180cmの高校生となり、おばあさん(ドリガーさんの奥さん)とにこやかに寄り添っている写真が映し出されたときは、ああ、よかったなあと、なんだかちょっと泣けてきたのだった。
ちなみに、「金髪のヨハネス」とは、少年の頃、輝くような金髪だったことから。
しかし、番組に出てきた当時50代前半の彼の髪は、金髪ではなく薄茶色になっていた。
金髪、碧眼、長身のアーリア人が優等民族。そんなアーリア人が世界を支配する。
本気でそんなことを考えていたのか、今から思うと悪い冗談のようだが、当時のナチスはそれを真剣に計画していたのだ。
そんな愚かな戦争や歴史に翻弄されてきた人々の痛み、苦しみや悲しみは、繰り返し伝えられるべきである。伝えることのできる人々も、どんどん少なくなっていくのだから。
NHKは今後も、そういったことを伝えるための素晴らしいドキュメンタリーを作り続けてほしい。
(ピナの喪を明けることにしたので、またいろいろとスローペースで書いていきます。もちろん、愛するピナのことも引き続き……)
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