入院日記

2010年8月21日 (土)

2010年 手術の旅―<番外編>役に立った本

 まだ続く入院日記……と思われるかもしれませんが、今回は日記ではなく、病気に関して役に立った本の紹介です。

<心に効く本>

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 おなじみ大島弓子の『グーグーだって猫である2』(角川書店)。
 実はこの2巻、大島弓子の闘病生活を軸に描かれている。
 発表当時も読んだ記憶があるのだが(初出1999年)、当時、私は病気ではなかったので、わー大変だったんだ、くらいで、どこか他人事ではあった。
 でも、こんなふうに病気を捉えることができるなんて、さすが大島弓子だ、私はこんなふうに思えないだろうな……と思ったのは鮮明に記憶に残っていた。


例えば、こんな一文がある。

ドクターに
ありがとうを
言うのを忘れてた

ありがとう
ドクター
ありがとう
ナース
多くの人々
全ての動物と植物
あらゆる管と
小さなチューブ
精密な計器
麻酔薬と痛み止め

そして
休みなく動き続けた
今はなき
子宮と卵巣
ほんとに

ありがとう

 初めて読んだ時、およそ10年後、自分も同じ病気になるとは思っていなかったから、辛い思いをしてもこんなふうに感謝の気持ちになれるのかなあと感じた。
 でも、読み返してみて、今はこの気持ち、すごくわかるのですよ。
 タイトルは「人生の大晦日」。
 冒頭に、急に痛みが出て、緊急入院したのが12月だったので、「普通の師走を通り越して 人生そのものの大晦日といったかんじになってしまった」とある。
 私の入院は12月ではなかったけれど、この「人生の大晦日」という感じもわかるわかる、上手いこと言うなあと思ったものだ。
 そのほか、手術からその後の入院生活まで、詳しく描かれているので、参考になった。
 大島弓子は、子宮筋腫のほかに、卵巣腫瘍もあり、手術後、抗ガン剤治療も始め、そこからがまた大変だったそうだ。
 私は手術後は回復を待つばかりだったから、ほんとにありがたいなあと思った。
 手術だけでも大変なのに、そこからまた化学療法が始まるなんて辛すぎる。

 とにかく、この作品を再び読んで、随分救われた。
 大島弓子の作品には、もう30年くらい、人生のいろいろな局面で救われているなあ。

 

 <実際的に役に立つ本>

51bd3kkp6yl_ss400__2  『子宮、応答せよ』(得能史子 講談社)。
 やはり漫画家が自らの子宮筋腫体験を描いたもの。
 マンガだと、それほど深刻にならず、わかりやすくてよかった。
 とはいえ、彼女の症状はかなり重く、私と似たところも多く、共感しまくりだった(彼女も最初、迷いに迷うのだが、子宮全摘を決断)。
 私は手術を決めて、入院直前に読んだのだけれど、こういう本がもっと早くからあれば、あれ程悩まなくてもよかったかも。
 でも、術後の様子なども詳しく描かれているので、その辺がとても参考になった。
 数ヶ月経って、手術したことも忘れるくらい元気になっていて、自分でも驚いたみたいなことがマンガで楽しく描かれていたので、かなり励まされた。

 専門書だと、病気の症状や治療法についてはある程度書いてあるけれど、結局、医師の診断を受けてください――みたいな感じで終わっているので、実際のところがよくわからないのだ。
 その点、この本は具体的な症状から、病院選び、検査のこと、入院・手術・術後の生活のことまで、本人の気持ちに沿って「実際のところ」が描かれている。
 シリアスになりすぎず、でも押さえるところは押さえてあり(もちろん医師の監修付き)、よい本だなと思う。

 多い病気なのに、あまり知られていない子宮筋腫。
 命に関わる病気ではないが、症状によれば、臓器をひとつ摘出する大手術まで必要になるわけで、もしまだ妊娠を望む人であれば人生を左右する大事である(望まなくても、やはり大事である)。
 その他、筋腫だけでなく、卵巣の病気もあるし、子宮内膜症の人も多いと聞く。
 もうちょっと研究というか、話題にされてもいいと思うのに、あまり大きく取り扱われないのは、やはり女性だけの問題で、男性は関係ないからかな……なんてちょっと思う。
 ガンや、いわゆる生活習慣病だのメタボだのの騒ぎ方と比べ、ほとんど注目されていないというか。
 女性の生殖機能に関わるところだから、あまり公に語られない、というのもあるのか知れないが。

 などなど、あれこれ考えるようにもなった。
 ありきたりなもの言いになってしまうが、病気をすることによって、生きている実感がより強まったというか、ささやかなことも嬉しく感じられるのは、今回のような体験がなければ味わえなかったことで、病気も悪いことばかりでないなあと思う。
 
 さて、週明けからいよいよ職場に復帰です。休んでると、早い早い。
 残暑どころか、まだまだ猛暑だよ……。
 もうちょっと体が動くようになったら、またゆるめのヨガなども復活させ、健やかな日々を送りたいものである。
 あと、マイナス・オーラを発散する人からも(困ったことに、いるのよねえ)、バリアを張って、自分の心身を守りたいと思いますです、切実に。

 

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2010年8月20日 (金)

2010年 手術の旅―<番外編>モノや病室のことなど

<病院から指定されいてなかったけれど、持っていったら便利だったもの一覧>

★タオルのほかに、手拭い
 氷枕やアイスノンのカバーにして使用。すぐ乾くので、便利。タオルのようにかさばらないから、荷物にならない。寝汗をかいた時にもよい。
 最近はきれいな柄の手拭いがたくさん売っているので、そういうのがあると、少しは気が晴れる。私は爽やかな桔梗柄と、青地に白い雲と雷小僧の楽しい柄を選んだ。

★バスローブ
 シャワーを浴びた後、脱衣所では足だけさっと拭いて、髪も乾かさずにクリップで留めて、バスローブを羽織って(中は、すっぽんぽんで!)、ささっと病室へ戻る!
 自分のベッドに戻ってから、ゆっくり髪を乾かしたり、体を拭いて着替えられるので、とっても楽。ベッド回りはカーテンがあるので、何をしてもOK! 腹帯やら何やら、着替えにわりと手間がかかるので、これはほんとによかった。ただし、バスローブはすごくかさばるので、これに限るのだけれど。
Photo_4 ←今治タオルで扱っている「ひびのこづえ」プロデュースのバスローブ。普通の毛羽立つタオル地ではなく、厚手の布巾みたいな、ハニカムクロス織りという木綿。ぎゅーっとたたむと、それ程かさばらない。バスタオルも同じタイプで揃えた。これもぐるぐると巻くと、わりとコンパクトになる。
ひびのこづえ バスローブ
 入院のためにわざわざ買うにはちょっと高いけれど、私は一昨年くらいに購入して、ずっと使っていたので。

★S字フック
 HPの体験談にもよく記載があるけれど、サイドテーブルはテレビが占領しているし、意外と小物を置く場所がないので、小物入れを用意して、S字フックにぶら下げておくと便利。



★買い物用のミニトートバッグ

 歩けるようになって、売店に行く時などに。点滴をしていると不安な感じなので、小さな手提げがあると安心。点滴のスタンドのつかまるところに引っ掛けられる(笑)。私は、マリメッコのムック本の付録のトートバッグを使用(というか、ムック本が付録なのか?)。これは、退院後も大活躍。

★扇子
 食事をすると、急に暑くなったりするので。

★うがい薬
 水が飲めない時、うがいをすると口がさっぱりする。私はヴェレダのハーブのマウス・ウォッシュを用意。できるだけ、よい気分になれるものだと助かる。

★無印良品のいろんなもの
 温泉に便利な、全体がメッシュ地のポーチ。シャワーの時、これに一式入れて、そのままシャワーを浴びても、水が溜まらずすぐ乾くし、スグレモノだった。
 そのほか、上記のS字フック、キャリーバッグ、針金ハンガー(病室に何本かあったが、足りないので)なども無印で調達。
 元気になったら旅行に役立ちそうと思いながら購入したので、買い物していてもあまり辛い感じにならなかった。
 無印の旅行グッズはスグレモノが多く=入院にも役立つということを発見。
 ビバ無印!

 ちなみに、前開きのネグリジェタイプがよいということで、いろいろ探したのだが、ネグリジェというと、途端にファンシーになりいい感じのものがなく、迷っていたが、これも無印でチェックにガーゼ地のシンプルなものを発見。
 しかし、同じ病棟で同じような病気の方がまったく同じものを着ていた……という、かぶりまくりの事態に遭遇する率も高いことを発見(笑)。

ビルケンシュトックのサンダル=院内履き
 ぺたぺたするスリッパだと悲しい感じだし、病棟では足をしっかり支えた方がいいということで、でも踵のあるものは面倒くさそうなので、ビルケンシュトックのサンダルを用意。ベルト部分は花柄で、ソフトな感じのものを選んだ。あの土踏まずの盛り上がりが内臓を刺激してくれるような気もして(実際のところ、よくわからないが)。退院後は、普通に外で履けるし、よい選択だったと思う。

 と、こうして書き出してみると、いろいろなものが必要だったなあ。
 この夏は入院グッズばかり買って、新しい服はユニクロのTシャツやウエストゆったりのジャンパースカート1枚だけ(これもある意味、病気用グッズ)。
 お腹を保護する腹帯なんてものも必要だし(これは医療用品専門のネットショップで購入、こういう時、ネットは便利)、さらにそれをしてゆったり履ける大きなショーツとか(これもネットで購入)、ほんとにあれこれと必要。
 実際の医療費だけでは済まないのが、入院である。

 こういった入院グッズを仕事しながら、日々ちまちまと揃えていて、術前検査あり仕事の引継ぎありで、本当に「人生の大晦日」(大島弓子のマンガにこんな言葉があった)のようであった。

<それから、病室(大部屋)での感想もちょいと>

 初めから個室は考えていなかったので、特に文句もないのだけれど、そうかこんなこともあるのか、ということを。

 女性だったので、ほんとに微かではあったが、隣から結構いびきが聞こえてきた。これはまあ、私も寝ている間はどんな感じだったかわからず、お互いさまか(笑)。
 でも、そのお隣さんは妙にマメな方で、元気になってくると、やたらベッドまわりの整理を始め、バタンゴトン、がさこそ。極めつけに、ペットボトルをメリメリッ、ベリベリッとご丁寧に潰す音が、私の枕元にダイレクトに響いてきたのは……さすがに……。
 私が寝たきり状態の時期に、その人は徐々に元気にというタイミングだったので、ああ、大部屋はこういうのが辛いのね、と思った。
 また、術後直後で水も飲めず、麻酔の副作用で最高潮に気持ち悪い時に、カーテン越しに食事の匂いが流れてくるのも辛かった(こういう時にも、扇子は活躍)。
 また、消灯後も読書灯は深夜でなければ、つけてもよいので、結構遅くまでつけている人もいて、意外と明かりが広がるし、テレビも光がちらちらするので、ちょっと気になったり。
 よかった点は、隣の人の様子で、回復の経過がなんとなくシミュレーションできること。
 熱がどれくらい続いて、どれくらいで元気になれるとか、様子を伺っていたわけではないが、何となく伝わってきた。

 エアコンの温度設定もちょっと寒かったり、温度を上げてもらうと暑かったり、なかなかいい感じにならず、吹き出し口から24時間音もして気になったり、 タオルケットもバスタオルを大きくしたような中途半端なものですぐにはだけたり、と、本当に入院前には想像もできなかった「小さな不快」は多々あった。

 とまあ、いろいろあったれど、10日ばかりの入院だったし、日々はどんどん過ぎていく。

 お隣のマメな人は、幸い土曜日に退院、その後の日曜日・月曜日(祝日だった)の2日間は新たな入院患者はなく、結構のびのびできて、私は無事、火曜日に退院。

  それから、個室が並んでいるのは、見晴らしのよい東南向きで、朝焼け、夕焼けが美しく見える場所で、ほーこんな部分でも差をつけられるのか、と思った。
 大部屋はその反対側で、位置的には、病院の裏側にあたり、救急車が止まる緊急口側で1日に何度かサイレンの音がする。
 けれど、まあ、一生いるわけでないしね。
 大部屋といっても、私のいた病棟は最大で4人だったから、それほど大人数で雑然、という感じもなかった。今は、カーテンでベッド周りを完全に囲えるし。
 洗面台もベッド近くにあったし、窓際だったので、前述したこと以外はわりと「個室気分」で過ごせた。

 とにかく、病院はホテルではないし、快適さなどは二の次、ひたすら治す場なのだなあと実感。
 心身のことだけでなく、こういった細かいことも得難い体験のひとつであった。

 ……と、またまたしつこく書いてしまいました。

 


 

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2010年8月18日 (水)

2010年 手術の旅―<10>退院後のことなど、まとめ

 

Img_2032  この前は、友人から美味しい卵を送ってもらった。
 「金印」の萌味(めぐみ)たまごという、自然の飼料で元気に育てられた鶏の卵。
 黄身が黄色というよりオレンジで、白身もプリッとしていて、なんとも美味。久々にたまごかけご飯なんて食べてみたけれど、旨いっ!
 別の知人からは、美しい蓮の花の写真のお見舞いカード。卵に、蜂蜜もあるし、コンフィチュールなんかも送ってもらったし、栄養の摂り過ぎに注意かも!

 さて、退院してからのことをまとめてみた。

 退院2日後には、心臓の再検査のため再び病院へ行った。
 もっと回復してから行きたかったけれど、入院中に予約もしてしまったし、結果は早い方がいいだろうと。
 術前・術後の心電図に変化がなかったので、だいじょうぶだろうとは思ったけれど、ここで精密検査を受けておけば、今後も安心。
 この夏の盛りに、胸に電極を5つも付けられ、そのまま帰宅、24時間心臓の動きを見て(当然シャワー禁止)、翌日また病院へという難儀な検査の他に、やっと心臓の超音波も受けられた。
 1週間後に出た結果は――まったく異常なし!
 異常どころか、ここまで不整脈が1つもないのは珍しいくらいだ、とまで循環器内科の先生に言われる。
 心臓の弁膜もよく動いています、とのこと。
 まったく、人騒がせな心臓であった(うぅ、この検査代も高かった……何もなくてよかったと思うしかないな)。

 術前に、心筋梗塞だの麻痺だのと脅かされた私は、念のため遺書まで書いたのだ。
 遺書といっても正式なものではなく、弟あてに、保険証券を用意して、保険金のこととか職場の電話番号とか、極めて事務的なメモみたいなものだが。
 入院する前日の夜中に仕方なく書いた。本当に何があるかわからないからなあと思って。

 ということから始まって、普段の生活では考えないことにいろいろと直面した。
 例えば、手術というのは必ず立ち会ってくれる人がいないと、行えないことも初めて知った。そのために備えて、入院当日も立ち会ってくれる人が一緒に説明を聞く必要がある、など。
 手術を決めた時は、ひとりで何もかも対応して、それこそサクッと自分だけで済ませるつもりだったが、そうはいかないのだった。
 麻酔をすると本人の意識はないので、もし何かあった場合、誰かいてくれないと……と先生から聞き、なるほど、もっともだと思った。
 普段、そういうことは考えないよね……。
 なので、そういう局面では「家族」に委ねられるわけだけれど、両親もすでになく、時間の不規則な仕事をしている弟に頼むのも気が引けていた私は、それを連れ合いが引き受けてくれたのは本当にありがたいことであった。
 そういった実際の必要性以上に、病院という馴染みのない場所で親しい人の顔があるということは、想像以上に心強いものなのだった。
 そういう気持ちも、入院する前は全然わかっていなかった。
 だから、私は天涯孤独でなくてよかった……などと思ってしまった。

 また、この大学病院では入院預かり金として20万円先に支払う必要もあったりで(もちろん退院時に精算してもらえるが)、ある程度のお金と家族がいないと、入院もできないのだなあと思った(お金は社会的な制度を利用すれば何とかなるだろうけれど)。

 それにしても――今、日本の医療のことでいろいろなことが言われているけれど、私が体験した今回の入院に関しては、医師、看護士、専門の技師から事務員まで、皆さん、よくやっているなあとしみじみ思った。
 例えば、自分の職場と比べたら――自分では忙しいと思っていたし、確かにそうではあるんだけど――その密度というか責任の重さは比較にならないと思う。
 看護士不足と言われるけれど、この病院では3交代制で(長時間勤務はさせない)、看護士さんの数も多かった気がする。くるくるとよく働き、忙しそうだけれど、皆、やさしかった。
 都下とはいえ、一応東京の大きな大学病院だから、看護士も集まってくるのか、地方はやはり人が足りないのだろうか、その辺はよくわからないが……。
 外来は患者がひっきりなしに押し寄せ、循環器内科などはお年寄りも多く、自分がどういう症状なのか説明できないようなおじいさんもいて、そういう人を看護士さんが大きな声で丁寧に尋ねているのを見ていると、私は病院のことを悪く言う気がしない。
 大学病院は診察の待ち時間がうんざりするほど長いのは事実だけれど、先生の方も早朝からノンストップで午後1時、時には2時くらいまで、お昼もとらず診ているわけで……。
 入院する前は、私もいろいろと批判もしていたのだけれど(笑)、現場を目の当たりにすると、こりゃ大変だなあと(モンスター・ペイシェントとか、ほんと理解しがたい)。
 だから、言いたいことがあるとすれば、もうちょっと余裕持てるよう、医療制度の改革をしてほしいよ、医療従事者のためにも、患者のためにも――ということくらいか。
 酷い病院もあるのだろうが、日本の医療関係者(のほとんど)はよくやっていると思うし、保険制度もアメリカなどと比べたらちゃんと機能していると思う。
 
 それはさておき――退院直後は、歩く、バスに乗るくらいがやっとだったところから、10日くらい経つと、重い掃除機をかけられるようになったり、手首にずっとあった点滴の内出血痕も消え、お腹の引きつれも徐々に薄れてきたりと、本当に1日単位では実感はないのだけれど、日を重ねるにつれ、元に戻っていく感じ。
 元に戻る、というより、本来あるべきはずでないものを取り去ったので、元より元気になっていくはずなのだ。
 そういえば、入院前、右足の裏側がつったような変な痛みがあり、退院後、今度は整形外科か……と憂鬱だったのだけれど、この痛みも消えた(仕事が始まるとどうなるかわからないけれど)。筋腫に圧迫されて出た腰痛が、足にも影響していたのかも知れない。
 完璧に動けるようになったわけではないので、まだよく実感できていないが、腰痛もだいぶ軽減したようだ。

 気持ち的にも、子宮を摘出した喪失感はなく、むしろ開放感でいっぱいなのは、自分でも不思議なくらい。
 これも手術を決める前には、想像できないことだった。
 手術のメリット、筋腫があるままでいることのデメリットをきちんと知ることができれば、ちゃんと納得できるものなんだなと思う(子宮ガンの心配もなくなったわけだし、このメリットは大きい)。
 なんだか、憑き物が落ちたかのような(笑)。
 「子宮」というと、実際の機能以上に、「イメージ」の方が大きいのかも知れない。

 先週、8月10日には、術後1か月後検診を受けた。
 経過は良好、そして筋腫の病理解剖の結果も悪性のものはなく、心配なし。
 一番大きい筋腫は7cm弱くらいと聞かされていたのに、それは8,5cmにまで育っていたらしく、ほんとに手術してよかった……と思った。
 入浴をはじめ(許可が出るまではシャワーのみだった)、自分の無理のない範囲で通常の生活を送っていいと言われる。
 次の検査の予約は?と聞いたら、今後は卵巣の検査を年に一度くらい受ければよく、この病院でなくても近くのクリニックでもよいでしょう、とのこと。
 えー、そうなんだ、もうここに来なくていいの?……と心の中で思い、なんだか気が抜けてしまった。
 そして、先生に「手術の際はお世話になりました」と退院の日にできなかった挨拶をして、診察室を後にした。

 ちょうどこの日、連れ合いも夏休みで来ていたので、ロゼのシャンパンをプレゼントしてくれて、「病院卒業祝い」の乾杯!

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 心配ごとや辛いことの過ぎ去ったひと時に、ピンクの、ぷちぷちと弾けるシャンパンは、もっともふさわしい飲み物だった。
 きりりと冷えて美味しい! この味は、一生忘れられないだろうなと思った。
 ピンク色がなんとも幸せな感じ。

 というわけで、退院後の報告もシャンパンの写真で締め括ることができてよかった。

 自分で立てること、動けること、歩けること、食べられること(ついでに自分で排泄できることも!)、そんな当たり前のことがいかに大切で、嬉しいことか、身に沁みた日々だった。
 自分自身大変な思いをし、また多くの人々の手を借りて癒えた体を、今後も大事にしながら生きていこうと思う。
 でも、そういうのって元気になると、きっとすぐ忘れてしまうんだろうなと思い、忘れないために、ほとんど自分のために書き綴った入院日記です。
 長々と書いてしまいました。
 読んでくださった方、お疲れさまです!

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2010年8月16日 (月)

2010年 手術の旅―<9>手術5日目~退院

7月17日(土) 晴れ

 手術5日目、血液検査あり。
 食事はお粥の量が多くなり、固形物も増える。
 それにしても早朝から野菜と豚肉の煮付けは食べる気がせず、野菜だけをひろって食べる。

 先生の回診があり、シャワーの許可も下りる。
 プリンとかゼリーとか(この手のものがむしょうに食べたかった)、間食をしてもよいかを尋ねると、だいじょうぶですよの答え(もっと早く聞いてもよかったかも)。
 やれやれ、やっとここまで辿り着いた。

 朝食後、9時過ぎに売店へ。
 生活クラブでたまに頼んでいた「かぼちゃプリン」(日本ミルクコミュニティ)を発見した時は嬉しかった。日頃馴染んでいるものがあると、嬉しい。このプリンは普通のスーパーなどでは見かけたことがないから、この売店の品揃えは結構いい。
 その他、マンゴープリンやパンナコッタのカラメルソース添え、のど飴、ノンオイル・ノンシュガークッキー、ペットボトルのジャスミンティーなど、あれこれ買ってしまう。

 この頃、喉が痛く、咳が出てくるのだが(これも麻酔の後遺症らしい。恐るべし、全身麻酔)、とにかく腹筋がないので、その出てきそうな咳が喉の辺りで留まっていたり、あるいは咳をうっかりしても凄くお腹が痛い!!のだ。だから、のど飴は助かった。先に買っておいて用意しておけばよかった。 

 昼食はトマトシチュー、サラダなどのメニューで朝より美味しい。

 先週の日曜、手術前日のバタバタで見逃した「龍馬伝」の再放送を見て、2時にはようやくの初シャワー。
 お腹の傷の全貌をおそるおそる見るが、やはり自分でも痛々しい感じが……。
 当分は、このお腹に腹帯(ふくたい)というガーゼの帯みたいなものを巻いて保護してから、下着を履く。
 さっぱりしてから、洗濯機を回しつつ、デイルームでコーヒータイム。カフェインレスのインスタントコーヒーとパンナコッタ。
 パンナコッタは「栗原さんちのおすそわけ」というネーミングの栗原はるみプロデュースのデザートでなかなか美味しかった(その後、スーパーやコンビニで探すのだけれど、どこにもない)。
 それでも午後3時半になっていないという、なんと健全な病院時間。


7月18日(日) 晴天――梅雨は明けた様子

 手術6日目。
 朝食はもう完全に常食。食パンがあるので、トースターの置いてあるデイルームへ行ってトーストにして食べてみる。
 トーストにティーバッグの紅茶の朝食で、だいぶ「普段」っぽくなる。
 同室の同じ手術を受けた人も来ていたので、一緒に食べながら話す。
 彼女は婦人科の手術3回目(!)とか、2年間腸の薬を飲んでいたとか(そうしないと、便が出なかったそうだ!)、いろいろ怖い話を聞く。
 手術時も、腸が癒着していて、消化器の先生も駆けつけ、8時間近くかかったそうだ。
 そういえば、同じ日に手術を受けたのだが、夜9時過ぎに戻ってきていたっけ。
 そんなに長い時間かかっていたとは知らなかった。
 彼女はここ数年、注射を打ったり、筋腫だけ取る手術をしたり、いろいろなことをしてきたが、結局全摘することになり、これだったらもっと早く取ってしまえばよかったと言っていた。やはり私だけでなく、他の人もじたばたするものなんだなあと思った。
 まあ、女性であれば、子どもを産まないと思っていても、子宮の摘出に抵抗がない人はいないだろう。
 でも、取ってしまえば、意外にすっきりするもので、お互いに「これから旅行の時も生理のことを考えなくていいと思うと、嬉しいよねえ!」と言い合う(大きな筋腫持ちの人なら、どれだけ大変な大出血か、皆、経験済み)。

 午後は地下まで歩き、外につながる連絡通路に出てみた。
 おお、夏の空気だ。
 退院する頃は暑そうだ――と、退院という言葉がもう頭の中にある。
 術後直後は、もうこのまま治らないのでは……というほど、ベッドの中で憔悴しきっていたのが嘘みたいだ。

Img_2016 入院する時はお気に入りのものを持っていくと、多少は心が和む。特にキャス・キッドソンのポーチ類(手前)はよかった。使いやすいうえ、ビニールコーティングで汚れにくいし、この花柄で明るい気分に。あと、手ぬぐいも便利だった。
時計は、大きな時計が病室にひとつあるだけで、ベッドからは見えないので、普段使い慣れている目覚まし時計(目覚ましは鳴らせないが)も必須アイテム。

 それにしても、どうすればより快適に送れるか、あれこれ工夫したりして病院生活にも慣れてきた頃で、退院という感じだ。まあ、そうでないと、困るけど。

 4時半頃にシャワーを浴びて、洗濯物を整理していると、友人のSさんが突然来てくれて、びっくり。
 お見舞いに、フランス産の蜂蜜。これは退院後のお楽しみ。
 途中、私の夕食をはさみながら、デイルームで3時間近く喋る。
 Sさんも編集者なので次の新企画の話など聞いて、びっくりしたり、久々に病気以外の話ができて新鮮。
 デイルームから見える夕焼けがとてもきれいだった。


7月19日(月) 晴天――外を見ると、歩いている人が暑そう。女性は皆日傘。

 手術7日目、というより、退院前日。
 長かったようでもあり、早かったようでもある入院生活。
 午前中に抜糸。抜糸といっても、ホチキス状のもので留めてあるので、抜くのは糸ではなく、その針みたいなもの。
 ぷちぷちと1つずつ抜いてもらう。痛みはないが、ちくちくと妙な感じ。
 透明の保護テープも剥がされる。
 退院前検診はまた後で、と言われる。

 昼食は、焼きそばに餃子(ヘルシーに蒸し焼きにしたようなのが3つ程)というちょっと変わったメニュー。ご飯にもちょっと飽きていたので、嬉しく食べる。

 連れ合いに、明日退院報告の電話(退院前検診はまだだったが、順調な経過なのでだいじょうぶだろう、ということで)。

 3時過ぎ、友人のKちゃんとだんなさんがお見舞いに。
 モロゾフのゼリーやマンゴープリンなど、冷たくて美味しいものをいただく。
 ふたりと話していると、笑うことが多く――特にだんなさんの話には笑い過ぎて――お腹が痛かった。
 昨日くらいから凄く暑くなってきたよ~と聞かされる。

 5時前に別れて、シャワー。もう本当に明日、退院なのだ。


7月20日(火)晴れ

 退院日。
 退院前検診は、結局ぎりぎり退院日の朝になった。
 エコーでの内診もあり、お腹もきれいだし、中もよく動いていますね、と言われる。
 摘出した筋腫の写真も貰い、初めてご対面。
 大きさが今ひとつわからないが、迫力のある塊がごろごろっと。
 まさにエイリアンが潜んでいたかのようだ。
 それが今はきれいなお腹になったのか……と感慨深い。 

 朝食が済むと、後はもう荷物をしまうだけ。
 看護士さんが退院後の注意事項の説明をしてくれたり、事務員さんが退院の書類を持ってきたりと慌しく過ぎ、結局執刀してくれた担当の先生とは挨拶できず、あれだけのことがありながら、いざ退院するとなると呆気ないものだった(それも、心配なことがなかったからだが)。
 昨日お見舞いに来てくれたKちゃんが、今日は退院を手伝ってくれることになり、再び来てくれた。
 10時過ぎ、病棟を後にする。
 Kちゃんに荷物を持ってもらい、退院受付に行って会計。
 あらかじめ、健保から高額療養の申請書を出してもらっていたこともあり(以前は後から戻る形だったが、今は先に出してすぐに清算してもらえる)、入院、手術、食事代すべて含め10万円を超えない請求額で、ほっとする。ありがたいことである。
 が……ここ数年の検査料を合わせると、かなりの金額だ

 その後、タクシーで自宅へ。
 連れ合いからの「おかえりなさい」のメモが机に。
 Kちゃんが病院にあるスターバックスで買ってきてくれたサンドイッチでお昼、その後数時間お喋りして、近所のスーパーでの買出しも手伝ってもらう。
 しかし、歩くので精一杯という感じで(それもかなりのろのろ)、回復にはまだまだ時間がかかりそうだなと思う。経過は順調で心配ないと言っても、やはり一歩外の世界に出ると怖い感じがする。

Img_2019  Kちゃんが帰った後は、荷物を片付けたり、洗濯機も1回、回した(順番待ちをしないで洗濯機を回せる幸せ!)。
 夕方、少し横になってから、出前の釜飯屋さん「釜寅」で海鮮五目釜飯を頼んで、ひとり退院祝い。
 入院する前から、退院したら頼もうと思っていたので、無事、海鮮五目釜飯を口にすることができてよかった。
 釜飯には、薬味とポットに入っているおつゆも付いていて、最後、お茶漬けにして食べられる。


Img_2021
嬉しかったので、釜飯のアップをまた1枚!
こんなささやかなことでも、退院後の目標を作っておいてよかったかも
。 

 
 
 

 


 釜飯を食べて、おやすみなさい。
 自分のベッドだと、こんなにも安らかに熟睡できるとは……。

 というわけで、手術の旅もようやく終わったわけである。
 入院~手術もそれなりの体験であったが、それ以前の辛い症状を抱えての月日がかなり長く、それも含めると、本当にひとつの旅だったような気がする。

 旅、といっても楽しい旅行ではなく、試練の旅というか。
 
 最後、釜飯の写真で終われて本当によかった(笑)。 
 次回、「まとめ」を書いたら、入院日記も終わりです。


 

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2010年8月15日 (日)

2010年 手術の旅―<8>手術翌日~4日目まで

7月13日(火)この日も空は暗く、やや荒れ模様―という空を横たわったまま見ていた

 手術翌日も、前日とほぼ同じ状態。
 熱は37,6℃くらいあり、いつもの体温より10℃も高い。普段、あまり熱が出ない方なので、かなり苦しい。
 ずっと寝ていたせいなのか、何かの副作用だったのか、とにかく腰が痛いのが辛く、眠れなかった。
 それでも、夕方にはついに尿管を外される!
 と同時に、「さあ、着替えもしましょうね」と、強制的に立たされる。
 この瞬間が一番辛いかも知れない。自分でトイレへ行ける、着替えられるというのは喜びなのだが……。
 立ち上がると、お腹に激痛は走るし、相変わらず気持ちが悪くなるし。
 それにしても、こんなにも気持ち悪いとは、ほんとに想定外。
 その気持ち悪さ=麻酔の後遺症=手術=手術室と連想していき、あの「2001年宇宙の旅」な近未来的空間を思い出すだけでより気持ち悪くなる、思い出すのが怖い、という変な思考にも陥っていく。なので、あの空間はできるだけ頭に浮かべないようにした。
 さて、着替えの話に戻るが、そんな状態で、看護士さんに支えられながら、点滴のスタンド(といってよいのか?)につかまりながら、よろよろとトイレへ。
 それから、手術着を脱いだ。この時、初めてお腹の傷跡を目にし、ああ手術したんだなとしみじみ。透明のテープが貼ってあり、傷口もまだ生々しい。いつの間にか剃毛されていることにも、この時気づく(この病院では全身麻酔後に行われるらしい。なるほど合理的だ)。
 蒸しタオルで体を拭き、自分の持ってきた寝巻きに着替えると、ちょっとほっとする。
 これからは、できるだけ歩くようにと言われるので、頑張ってトイレへ行く(というか、トイレくらいしか行くところがない)。
 ベッドと、点滴のスタンドとトイレだけが、その時の私にとって「世界の中心」だった。
 熱もあり、氷枕とアイスノンを両方していた。
 こういう細々したもの(体を拭く蒸しタオルとか)も看護士さんが全部用意してくれて、今まで看護されることに縁がなかった私にとっては新鮮というか、感心するばかりで、本当に看護士さんが天使に見えた。

 が、自分の体の辛さは自分でやり過ごすしかなかった。
 起き上がりやすいようにベッドに傾斜を付けてもらったのだが、氷枕がじりじりと下がってきては直す、の繰り返し。
 自動で調節できるベッドではなかったので、手動で直す気力・体力もなく、体も下がってきて足が支えるのだが、そのままという妙な状態で過ごす。


7月14日(水)天気のメモなし

 手術2日目。
 微熱が続き、相変わらずの感じだったが、午後4時過ぎ頃にやっとガスが出て、晴れて水が飲めることになった。
 買い置きしてあったぬるい水だったけれど、その水の美味しかったこと!
 点滴をしているので、喉が渇くという感じではなかったのだけれど、水を飲めないという状態は心理的に辛いのだ。

 そうして、この辺を境に徐々に楽になっていった。
 気持ち悪さや吐き気も自然と治まっていた。
 点滴をしたまま、地下まで降りて自動販売機でミネラルウォーターを買う「大冒険」もした。

 錠剤の痛み止めも飲めるようになり、それが結構効くので、かなり楽になる。
 この日は水だけ、次の日の朝から流動食が始まる。


7月15日(木)晴れ

 手術3日目。
 術後、初めての流動食。
 お茶、重湯、具なしの味噌汁、具なしのフルーツゼリー(亜鉛入り、とあった)。なんだか、沁みるような感じ。
 ちょこちょこ歩く。点滴を付けたままトイレへ行き、さらにビーカーで尿の量を測り、そのビーカーを洗って所定の位置に、という「芸当」もだいぶ難なくできるようになってくる。
 ベッド回りを使いやすいように整理したり、床に落ちている髪の毛を拾ってきれいにしたり、ということまできるように。

 お昼も流動食。
 重湯、具なしのコーンスープ、ぶどうジュース、そしてアイスクリーム。普通のバニラアイスだったけれど、冷たくて甘くて、このうえなく美味しく感じられて、まさに天国の味!

 日中、窓のカーテンは必ず開けるようにしていた。
 点滴したままベッドに横たわり、窓の外を眺めていると、不思議と穏やかな気分で、自分が少しずつ、少しずつ治っていく実感が湧き、なにかこう「修正」されていくような感じがした。
 
 点滴も24時間ではなくなる。
 この日の点滴が終わると、看護士さんにシャンプーしてもらった。体も拭いて、さっぱり。
  シーツの交換日でもあったので、洗濯もした。洗濯機と乾燥機が空いているのをねらって洗濯するのもちょっと大変だったが、うーまた乾燥機、取られた……とか、行ったり来たりしたのも、いい運動(リハビリ)になったと思う。
 
 点滴をしている間はなぜか本も読みたくなかったが、外れると急に読みたくなる。文庫の『銀の匙』を読む。文章が美しく、やさしい。


7月16日(金)晴天―梅雨は明けたのかな?

 手術4日目。 
 嬉しいことに点滴は今日で最後。
 朝食は3分粥になっている。水を買いに行ったり、体を拭いたり、なかなか空かない洗濯機の様子をうろうろ見に行ったり。
 この日の午前中、術前検査で引っかかった心電図の再検査も受けた。

 お昼は5分粥に、おかずも固形物になっていた。
 鰆の梅煮とすまし汁が美味しかった。

 夕食後、携帯OKのエリアのデイルームへ行って、弟や親しい友人数人に「手術、無事に終わりました」の報告メール。
 連れ合いには直にかけて「無事ですよ」の報告。
 連れ合いは、摘出した子宮と筋腫を見せられたそうだ(すぐに病理解剖へ回されるので、私は見せてもらえなかった)。
 それは、子宮に筋腫があったというよりも、巨大な筋腫の中に埋まった子宮、という感じだったそうで(ここで何となく可笑しくなり、ちょっと笑ったが、お腹が痛かった)、これはもう手術するしかないだろう、と素人目にもそう思えるものだったそうだ。
 うーむ、そんな状態でよく生活していたものである。今だからこそ笑えるが。
 それにしても――そうだったのか、かわいそうだったな、私の子宮……。

 NHKのニュースなど見て、10時まで起きる。
 夜中も腰が痛く何度か目が覚めるが、だいぶ楽になった。

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2010年 手術の旅―<7>手術の日

7月12日(月)よく覚えていないが、曇り~雨~風、とちょっと荒れ模様だった記憶が。

 朝6時、うとうとしていると、すかざす「浣腸しますよー」の看護士さんの声。
 いよいよ、という感じである。

 7時前後だったか、早い時間に連れ合いが来る。
 私はベッドに寝たまま、少しお喋り。手術は午前9時から。8時前までに用意をしておくように言われていたので、7時半頃、手術着に着替え、血栓を防ぐためのぴったりしたナイロンのハイソックスを履く。
 それから、8時から病室で点滴(何の点滴かすでに覚えていないが、麻酔をする前段階の弛緩剤のようなものだったか?)。
 どれくらいそうしていたのか、手術室へ向かう時間になり、移動用のベッドが到着。
 点滴をしたまま自力で立ち、そのベッドに移る。
 あの、ガラガラガラと運ばれるやつである。
 天井の電灯が次々と現れ、ほんとにドラマのERだあと内心思っていると、看護士さんが「エレベーターに乗りますね」「手術室のある病棟へ移動しますよ」など、次々実況解説してくれる。
 その間、連れ合いも同行。
 手術室へ入る前の申し送り室のようなところで、しばし待つ。
 手術着の看護士が来て「手術を担当する○○です、よろしくお願いします」
「お願いします」と挨拶を交わすが、いちいち名前は覚えていられない。
 この部屋には、これから手術を受ける人が次々とやって来るのである。
 歩いてきたおばあさんが座って、隣の人に「私は大腸なんですよ」とか普通に話している。
 そうか、歩いて来る人もいるんだ、などと思う。
 全身麻酔の必要のない、比較的軽めの手術の人なのか。
 連れ合いに「ゆったりした気持ちで、頑張ってね」と声をかけられ、私は手術室へ運ばれた。
 
 手術室は白くてピカピカで、なんとなく近未来のSFチックな雰囲気で「うわあ、これは『2001年宇宙の旅』みたいだ」と思った。
 ドラマとかでよく出てくる大きな照明も白い流線型で、金属というよりプラスチックという質感。
 宇宙ステーションみたいな感じ(宇宙ステーションなんて実際に見たことないけど)。
 「いとしのエリー」のオルゴール・バージョンっぽいのが流れていて、モーツァルトかバッハの方がいいな、なんて思っていた。
 血圧、脈拍などいろいろ測られ、次々にいろいろな装置を付けられる。
 手術着の看護士や医師(その他、何かの専門技師?)なども続々登場、意外に和やかな雰囲気で、スタッフ同士で「おお、久しぶりぃ~」的な会話を交わしている。
 部屋の片側はガラス張りになっていて、そこでも立ち働くスタッフが。
 そこから医学生などが見学できるようになっているのだろうか。
 「では、麻酔をしますから、深呼吸してください」と先日の若い麻酔科医に言われ、マスクを口にあてられる。
 二、三度深呼吸しても、全然眠くならず、私は麻酔があまり効かないのでは?なんてことを思っていると、突然、記憶が切断された。
 そして、次の瞬間、「終わりましたよ」という看護士さんの声。
 今思い返しても、不思議な感覚である。
 通常の睡眠時のように、ふわーっと眠くなって徐々に眠りに落ちるのではなく、まるで映画のフィルムをハサミでぱちんと切るかのように、記憶が突然途切れるのだ。
 そして、起きた時には何もかもが終わっている……という。
 人生初の全身麻酔体験は、なかなか衝撃的だった。

 しかし、その「終わりましたよ」からが、始まりであったのだ。
 無事でよかったと思うよりも、まず思ったのは、つながれた尿管に凄い違和感があったこと。開口一番「なんだかお小水が溜まっている感じがするんですけど」と看護士さんに訴えたが「尿管にちゃんとつないでありますから、だいじょうぶですよ」とのこと。

 そして、いつの間にか連れ合いも来ていて、「よく頑張りました!」なんて声をかけてくれている。
 病室に運ばれ、元のベッドに寝かせられる。
 しばしの静寂。
 連れ合いから、手術は癒着もなく、よって輸血もなし、無事成功したことを告げられる。
 時間を尋ねると、午後1時10分。何か言おうとしたが、声があまり出ない。
 連れ合いにお礼だけ言って、お別れ。 
(その時は何も思わなかったが、1時近くまでかかったということは、やはり予定時間を2時間くらいはオーバーしているわけで、癒着がなかったとはいえ、巨大筋腫だったので、それなりに時間がかかったのだろう)

 その後、血栓予防のために足はマッサージ機につながれ、尿管もつながれており、腕には点滴で、まさに寝たきり。
 朦朧とした中でも、私はその尿管が余程気持ち悪かったのか、また看護士さんに「お小水が溜まっている感じがする」と訴えたが、「ちゃんと出てますよー」と事も無げに言われた。
 そうか、自分で出しているという実感がないことの気持ち悪さなんだな、と思う。
 しかし、どうしようもない。
 手術後はこんこんと眠ればいいのだ、なんて思っていたのは甘い見通しで、辛すぎても眠れないことを知った。
 熱もあり、やたら腰も痛いし、麻酔の後遺症やら痛み止めの点滴のせいやらで、突発的に気持ちが悪くなる(でも胃は空っぽなので、胃液しか出ない……)、そのうえ、夜通し血圧・脈・体温を、1~2時間おきに計られるので、眠る間もない。
 午後1時過ぎに終わって、夜までかなりの時間もあったわけで、それまでどうしていたのか、それでも途切れ途切れには眠ったのか、今となってはどうやってやり過ごしたのか、よく覚えていない。

 人生初の全身麻酔に、人生初の開腹手術――やはり体験談を読んでもわからないことはいろいろあり、予想もつかないことの連続であった。

 

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2010年 手術の旅―<6>手術前日

7月11日(日)曇り~雨~強風

 思えば、入院した当日はたまたま晴天だったけれど、まだ梅雨明け前だった。
 さて、意外だったのが病院の食事。
 まずいと決めてかかっていたが、見た目は確かに地味だけど、味はそう悪くない。
 悪くない、どころか、わりと美味しい。ただ、熱々でなく、油分控えめ、味も全体的に薄味なので、元気に活動している健康な人が食べたら物足りないかもというのはあるが、入院している身には十分。

Img_2017_7 手術前の常食のメニュー。
ご飯、味噌汁、蓮根のきんぴら、オクラと納豆、魚は鰆だったかな。一口大に切ってあるスイカ(カップやお箸、スプーン類は持参します)。

 面会の時使える、明るいデイルームもあるし、食事もまずまずだし、病院は昔とは本当に変わったなあと思う。

 そうそう、デイルームにはコインロッカーみたいな、個人で使える冷蔵庫もあった(1日150円)。
 自分でティーバッグとかインスタントコーヒーも持ってきていたので、それを飲んでいれば、まずまず。
 お湯はデイルームの流しから熱湯が出るので、面会に来てくれた人用に紙コップを用意しておけば、お茶を出すこともできる。

 昼過ぎ、連れ合いが来る。
 わざわざ新宿伊勢丹でピエール・エルメのケーキを買ってきてくれたのだが、病室に入る直前、「緊張のため」(本人談)ケーキを箱ごと落としてしまったという。
 おそるおそる箱を開けてみると、フルーツがすっとんでいたり(いちじくとラズベリーの乗ったムース)、滑らかだったはずの表面(リキュールを効かせたバニラ風味のタルト)がぐしゃぐしゃになっていたが――新宿から三鷹のこの病院までは大事に運んできてくれたというのに!――エルメなので、形は崩れていても味は美味しい。
 半分ずつとっておき、冷蔵庫に入れて、夕食のデザートにする。

 連れ合いと別れた後、シャワーと洗濯。
 シャワーは予約制。洗濯は1台だけある洗濯機と乾燥機を空いている隙をみて使う。それぞれ1回100円。
 夕食後、またエルメのケーキを食べる。9時以降は、水も飲めない絶食に入るので、だんだんそのことを中心に考え始める。
 と、この辺りまでまだ余裕な気分だが、夜8時頃、浣腸の時間がやってくると、一気に病人気分に……。
 子どもの頃以来したことがないので、どんな感覚か忘れていたが、凄く気持ちが悪く、苦しい。その割りには、あまりすっきり出ないような、なんとも変な気分。
 それからペットボトルに残っている水を全部飲んで、明日の朝起きたらいよいよ手術なのだ……と思いながら、就寝。
 熟睡、というほどでもなかったが、緊張して眠れない、ということもなかった。

 

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2010年 手術の旅―<5>入院当日

 

7月10日(土)晴天

 ついに入院の日がやってきた。
 連れ合いがうちに到着したのが午前8時40分頃(遠方から深夜バスで来てくれた)。
 荷物はだいたいまとめ終わっていたので、9時半には慌しく一緒に家を出て、予約しておいたタクシーでK大学病院へ。

 10分くらいで着く。
 入院の手続きをし(土曜日の入院は午前9時~10時までの手続き)、その日同じ病棟に入院する患者が何人か集められて、合同で病棟の説明。
 それから、いろいろな書類を渡されてから看護士さんの説明。
 血液検査なども早速行われ、血を採られる。
 その後、執刀してくれる担当医師から、個室で説明。
 教授然の先生はいつの間にか私からフェードアウト、一度外来で診てもらったことのある女医さんが担当医になっていた。
 とても穏やかで感じのよい先生なので、本当によかったと思う。
 MRIの画像をもとにしながらの説明。連れ合いも私から話はさんざん聞かされていたが、実際に目にするのは初めてなので、その大きさに目を丸くする。
「本来、子宮というのはこれくらいの大きさなのですが(と、本来の大きさをペンでぐるりとやって見せて)、筋腫のため、ここまで大きく膨らんでいます」
 ほぼ、お腹いっぱいに伸びきった子宮。大変なことなのだが、何だか奇妙である。よくもまあ、ここまで大きく……という感じ。
 さっきの血液検査もOK(結果が早い!)、その他術前検査(感染症)の結果も心配なし。
 合併症やら輸血が必要になった際の感染症(HIVや肝炎も含む)やら何やら、手術の際、想定し得る限りのリスクを聞かされ、終了。

 病室の用意が整うまで、デイルームというところで、手術の同意書に次々とサインをしていく。
 連れ合いは病院側からは何の疑問もなく「ご主人」と呼ばれるので、法的な手続きはしていないけれど、まあ、そういうことにしておこうと(笑)。
 病室へ呼ばれ、荷物を持って移動。
 4人部屋だったが、嬉しいことに窓際のベッド。
 この窓から見える空が、術後も私を慰めてくれることになった。
 
Img_2015_2
                病室のベッドから見えた風景。

  荷物を出していると、次は麻酔科医が来て、説明。
  「風のガーデン」の中井貴一さんみたいな渋いベテランの人かなーと思っていたら、まだ20代後半から30代前半くらいの若い男性だった。
 またいろんなリスクを聞かされ、同意書、そしてサイン。

 ばたばたしているうちに、お昼の病院食が運ばれていた。
 手続きするや否や、患者として組み込まれているシステムに感心するも、手術前に連れ合いと一緒にとれる最後の―最後、というのも何だが―食事なので、それは食べずに病院の最上階にあるレストランへ行った。
 今時の病院ってこんな見晴らしのいいレストランがあるんだねえ、などと言いつつ、食事をした。
 レストランといっても、味付けも若干薄め、ヘルシー志向なメニュー。
 手術は明後日の月曜日なので、その後、この日は外出できないこともなかったが、何だかもう落ちつかないので、病院で過ごすことにする。

 食事の後、午後3時前、連れ合いはいくつか用事があるので、明日また来ると言って、病院を出た。
 3時半にはシャワーを浴びてしまい、「病院着」(無印良品のガーゼ地のネグリジェを用意)に着替えたら、徐々に「病人」気分に。
 荷物を使いやすいように置いたり、病棟をちょっと探検したりで、やっと5時。
 やることがなく、デイルームで、さっき山のように渡された書類や同意書に目を通してみる。
 リスクと言われてもなあ、心配したところで、自分の努力ではどうにもならない。
 無事を祈るしかない、と思う。

 自分は今までの延長で、普通に過ごせるのに、看護士さんが時間になると「お変わりありませんか?」と言っては、熱やら血圧やらを計りに来るのが不思議な感じ(心の中で、何も変わらないよ~と思いつつ。なにせ、木曜日までバタバタとフルタイムで仕事していたのだ)。

 合間に、「文藝」別冊・KAWADE夢ムックの「萩尾望都」などを読む。

 夜はきっちり6時に食事。
 9時消灯だけれど、読書灯を付けるのはOK。
 9時からNHKのドラマ「鉄の骨」を見る。でも、ベッドとテレビの距離というか、角度がいい具合にいかないし、イヤフォンも耳が痛くなってくるしで、あまり堪能できない。
 そのせいでやや疲れ、あまり眠くないけれど、強制的に眠った

 

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2010年8月12日 (木)

2010年 手術の旅―<4>術前検査で……

 大きな筋腫を子宮ごと摘出する「単純子宮全摘術」を決心、手術の日程も決まり、職場にも報告。
 6月12日には、手術日1か月以内の術前検査を受けた。
 以前の気さくなY先生(准教授)から変わって、今度はいかにも大学病院の教授然とした、やや威圧的な雰囲気の先生で、あまり気軽に話せない感じだ。
 検査の内容は、血液検査・心電図・尿検査・肺活量・胸のレントゲンなど。
 一番心配だったのは、血液検査での貧血。もし、貧血だとホルモン注射を打つことになるかも知れない。
 約1週間後に結果が出た。せっせと鉄剤を飲んだせいか、血液のヘモグロビン値は何とかクリア。
 しかし、心電図で気になる波形があることを告げられる。
 おお、そうであった、私の心電図は異常がないにも関わらず波形がちょっと変なふうに出るのだった(健康診断でもそんな結果が出て、精密検査を受けたところ、異常なし)。
 そのことを先生に伝えたが、念のため循環器の先生にチェックしてもらうことになる。
 待合室でしばらく待っていると、だいじょうぶだと言われ、ああ、これで予定どおり手術が受けられるんだとほっとして、その日は帰った。

 職場では引継ぎ用に、今まで自分の頭の中だけに入っていたひととおりの流れや役割分担を書き出してのマニュアル作りに追われていた。
 一連の流れとして何気なくやっていることも、他の人にわかりやすいようにマニュアル化するのは案外と大変だなあと思いつつ、こういうのを作るよい機会かも知れないと思った。

 そして、あれは6月も終わり、手術までもう間もなく、というぎりぎりの頃だったと思う。
 仕事から帰ると、留守電に手術を担当するチームの婦人科の医師から電話が入っており、確認したいことがあるとのことだった。
 夜だったので、病院の代表にかけてもこの時間はつなげないとかで、うーん先生自らが電話をくれたのにと、何となく腑に落ちない思いでいた(直通の番号を留守電に残しておいてくれればいいのになあ、と)。
 一体どんな用件なのだろうと不安な思いでいると、またその先生からかかってきた。
 用件は、先日の心電図のことだった。
 先日の検査結果の際ははだいじょうぶだと言われたのに、やはりもう一度心電図の検査を受けてほしいとのこと。
 仕事のスケジュールもパンパンだったけれど、致し方ない。
 7月10日がもう入院だというのに、6日に再検査に循環器内科へ出向いた。
 結果はやはり同じで、循環器の医師には「本当なら心臓の超音波も受けないと万全でない」と言われる(以前、3年前に再検査した時は、心臓の超音波を受けたかどうか、この段階ではよく覚えていなかった)。
 しかし、今、予約がいっぱいで心臓の超音波検査を受けられるのは最短で13日だという。
 ええー、手術12日なのに、今日、全部検査できるわけじゃないのか……と頭が真っ白になる。
 予定はずらせないと言うと、「では、12日に決行しますか?」と医師(わりと若い女医さんだった)。
 「決行しますか」って、なんか怖い響きだなあと心の中で思っていると、
「万が一ですが、心臓に問題があると、手術中心筋梗塞を起こしたり、あるいは心臓が頑張りきれず、例えば手のところまで血液が回らないとそこが麻痺したりなど、そういうリスクもあることを理解してください」
 と、その他、命の保証はできない的なことを言われ、ますます頭が真っ白に。
 「手術中は血圧に注意しながらやってもらいましょう」などと言ってくれたが、不安は拭えない。
 呆然としながらも「はい」とか言って、その日は午後から出社予定だったが、とても仕事する気にならず、休むことにしてタクシーで帰宅。
 帰宅後は、どっと疲れてしばらく眠り込んでしまった。

 それから、3年前に検査を受けたクリニックに電話をし、心臓の超音波を受けているかどうかを確認した。
 「受けている」との返事。その時、異常はないと言われたから、だいじょうぶなのだろうと思う。
 思うけれど、不安だった。何しろ、3年も経っているわけだし。
 職場も代理の人にも来てもらい、あれこれ進めているし、「手術」を中心にすべてが回っているような生活で、これ以上予定をずらすなんていうことは、この段階において考えられなかった。
 決心するまでの心の揺れや実際の体のしんどさ、仕事の忙しさなども重なり、ここまで来て心臓がどうのこうのという問題が持ちあがるとは……だけど、「決行する」という判断が後々後悔を生むことになったら、など考えると、もう気持ち的に限界だった。

 連れ合いも「自分の体が第一だから、日程を調整してもらった方がよいのでは」と言うし、どうすればよいのか、ここでの段階が一番辛い時期だったと思う。

 一方で、どう考えても、自分の心臓が悪いとはどうしても思えなかった。そのあたりの辛さを感じたことはまったくなかったので。
 自分の体感というか、直感に従い、とにかく「決行」することを決意し、翌日婦人科の先生に電話した。
 3年前だが、心臓の超音波検査も受けていることを電話で伝えると、先生も「循環器の先生とも相談しましたから」とのことで、どうもその過程が今ひとつよくわからなかったが、手術は予定どおりすることになっているらしく、循環器の先生の言葉も、つまるところ、
「手術というのは、リスクのない人でも、100%安心ということはあり得ない」
という意味らしかった。
 再検査も念には念を入れて、とのことで、命の保証はできない的な言い方も、今病院というのは大げさなくらいにリスクの説明をし、それが医師によっては、深刻な表現になるらしい、ということがわかってきた。
 やれやれ、である。
 電話で対応してくれた婦人科の先生(女性)はとても丁寧で感じがよく、安心感があったので気持ちも和んだ(外来の教授先生はそういう細々したことはやらないらしい)。

 ある意味、「元気」でないと(というか数値がよくないと)、手術もできないんだなと実感した。
 そして、手術(特に開腹手術)というのは、やはり大変なことなんだなと思う。

 こんなすったもんだもあり、手術を決めてからは、迷うということは一度もなかったけれど、命の危険があるかも――なんていう事態に一時でも遭遇するとは思いもかけなかった。
 人間、死ぬ時は死ぬし、なーんて普段はクールに思っていても、いざ直面すると、かなり動揺するものだ。
 入院してからのことは、次回に。 

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2010年8月 3日 (火)

2010年 手術の旅-<3>手術を決めるまで

 2009年2月、健康診断で受けた子宮頸がん検査。 
 書類には、「子宮筋腫あり、経過観察中」と記入したので、まあ何かしら言われるだろうと思ったのだが、健康診断でそういう検査をする人はそればっかりする検査専門(?)みたいな人だろうと、気軽な気持ちで受けたのであった。
 ところが、そこにいたのは、この道30年とかいう年配のベテランの女医先生だった。
 子宮頸がん検査が始まる前から、間髪をいれず、こんな大きな筋腫をそのままにしてるの?!と(当然、お腹を触っただけでわかるらしいので)、怒涛の勢いでお説教され……。
 以前通っていたAレディスクリニックのA先生のことを話すと、そのA先生のこともよく知っているのであった。
「あなたみたいにね、そうやってふらふら、ふらふらして、心臓も内臓もいろいろだめになってきてから、どうにしかしてくださいって、駆け込む人がいっぱいいるの。そんなのだめですよっ!」
「子どもが3人もいるA先生(=女医さん)が全摘を勧めるというのは、それなりの判断だと思いますよ」
「私はね、自分の人生を犠牲にしてこの道で30年以上もやってきたけれど、今そういう先生はどんどん減ってるの。いざ手術してもらおうと思っても、いい病院を探せなくなりますよ」
 などなど、だんだんとベテラン女医先生の人生論みたいな感じになり、このままの状態では私を帰してくれそうにないのだった。
 で、「Aレディスクリニックはもう行きたくないの?」と問い詰められ、「はあ、まあ、家がちょっと遠くなったので」などと言い訳をしていると、
「今、どこなの?」「三鷹です」「じゃあ、三鷹のK大学病院のY先生を知ってるから、紹介状を書いてあげるから」
 となったのである。
 今までのA先生は淡々と手術を勧めるだけで、そこまで熱く語らなかったので、私も逃げていたわけだが、これはさすがに何かしないとまずいのでは・・・・・・と動揺してきた。

 この時期、一番心が揺れ動いていたかもしれない。

 というわけで、紹介状を持っておそるおそるK大学病院へ向かった私(初診は予約取れなくて、なんと4時間以上待った)。
 しかし、そのベテラン女医先生とは反対に、Y先生はわりとあっさりした気さくな先生で、「あの先生、口うるさいでしょう。私たちもいまだにあーだこーだ言われるんですよ、ははは」なんて言うのだった。
 ふーん、そうなのか、大げさなのか、あの先生は・・・・・・と内心思い、やや気が抜ける。
 とりあえず、その後、またMRI検査や血液検査などをひととおりやった。
 これも同じ日にすぐ検査できるわけではなく、まず診察・MRIの予約→MRI検査→MRI・血液検査の結果を聞きに行く、という3段階になっているので、大変なのだ。
 その度に、仕事のスケジュール表を見つめて、有休を取っては病院へ。
 検査の結果は、筋腫は大きいけれど、悪性ではないとのこと(前述の子宮頸がん検査も問題なしだったので、後はもう考えるのは筋腫のことばかり)。
 Y先生もその大きさを心配しつつも、私が腰痛以外はそれほど辛くないと言うと、
「本当に辛くなってくると、皆さん、自分から手術してくれと言ってきますからね。まあ、そういうことであれば、しばらく経過観察でもいいでしょう。でも定期的に診察は受けてくださいね」。
 というわけで、この状態でまた1年が過ぎた。
 貧血対応の鉄剤も、飲んだり飲まなかったり。

 なんか疲れやすい、年かなあなんて思う日々を送り、またまた今年、2010年の健康診断では、血液検査の貧血でひっかかる。
 ヘモグロビンの値が確かに毎年少しずつ下がっている。女性は12,1以上が標準値だが、私は8~9の間をさまよっている。
 それまで貧血をあまーく見ていたのだが、ある本を読んだところ、心臓に血液が行き渡らなくなり、心不全など重い病気をもたらす場合もある、なんて怖いことが書いてあった。
 疲れやすいのは、やはり貧血のせいかもと思い始めたのはこの頃だ。
 心臓に血がいかないなんて怖いじゃないか。
 それから、腰痛もだんだんと酷くなっているようだし。
 などあれこれ思い当たる節が多くなり、何より、年々お腹がぽっこりしてきて、自分がデブになっているのか、筋腫が育っているのか、その両方なのか、なんだかもうよくわからなくなっていた。
 このまま、どんどんお腹が大きくなるのか。いやだなあ。
 そういや、仕事中、お昼食べた後も苦しいしな。
 と、ここまで揃えば、十分に正常ではない状態なのだが、今日明日命に関わる病気でもないので、ある意味、慣れてしまうところもあるのだ。

 今年3月の診察でもY先生に「まだ決心はつきませんか?」と言われ、やはりこの先生も手術が一番だと思っているのだなあと感じた。
 すると、「実は私は6月でこの病院にいなくなりますから、○○先生に引き継ぎますからね。次回は○○先生に診察してもらってください」と言われ、ショックを受ける。
 こうして、迷っている間に、大きな病院だと担当の先生も他の病院に移ったりすることもあるんだなあと、だんだん心細くなる。
 それから、この診察の際に「子宮を取ると、いきなり更年期などの症状が出るのですか?」と尋ねたのだが、「卵巣があれば、だじょうぶですよ。女性ホルモンは卵巣から出ているんですから」と言われた。
 へえーそうか、この期に及んでそんなことも知らないで私は生きてきたのか、と思った。だったら手術してもいいのかな……。

 そんなふうに迷っていた私が手術を決めたきっかけは、一般の人が作ったHPに掲載されていた体験談だった子宮筋腫手術への道 )。筋腫の症状が酷い場合は、抱えたままにしておくより、思い切って手術に踏み切ったほうがメリットがあるということが丁寧に説明されていた。
 自分と同じような症状の人の体験談というのは、信頼できる感じがした。
 それが4月頃。
 そんな記事を読んで、ついに手術を決心した私は、6月の診察の予約を急遽4月下旬に変更してもらい、その時に手術の日取りなどすべてを一気に決めた。
 もう後戻りしないぞ、と。
 翌日には、職場にも報告。

 そこからは早かった……が、それなりにいろいろなことがあった。
 手術するにも「元気」でないとできないなんて、その頃は想像もしなかったのである。

 いよいよ、入院・手術までの具体的なあれこれは次回で。

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