「ぐるりのこと。」――リリー・フランキーさんは菩薩のようであった
13日の水曜日は、新宿武蔵館のレイトショーで、映画「ぐるりのこと。」 (橋口亮輔監督)を観た。
「ハッシュ!」がよかったので、期待を裏切られないだろうと思ったけれど、そのとおりだった。
ある夫婦の日々を、1993年から、2001年にわたって描いたもの(2001年までに設定したのは、監督なりの理由がある。サイトのインタビューを読んでみてください)。
法廷画家の夫・カナオは、リリー・フランキー、妻・翔子は木村多江。
なんでもきちんとしていないと気がすまない几帳面な翔子は、生まれたばかりの子どもを亡くしたのをきっかけに、少しずつ心が壊れてゆき、鬱になる。
その妻を側で見守る・夫カナオ――を演じたリリー・フランキーが本当によかったのだ。
肩の力がいい感じに抜けていて、テーマ的には結構重いのだけれど、笑わせてくれて、現実の生活って、問題を抱えていても泣いてるばっかりじゃなくて、笑ったり食べたりいろいろあるよね、と。
とにかくリリーさんは本業は俳優でもないのに、素晴らしかった。俳優ではないからこそなのか? 40代の中年のオッサンなのだけれど、母性みたいなものがあって、なんだか菩薩のようであった。
鬱の妻を、無理に励ますでもなく、責めるでもなく、ただそのまま、ありのままを受け止め、寄り添う。その眼差しのやさしさ。
「どうして、ちゃんとできないんだろう」と泣きじゃくる妻に(木村多江のリアルな演技も真に迫っていてよかった)、「そんなに何もかも上手くいかないよ」というようなことを静かに言う夫。
後に明かされるが、彼もまた複雑な過去を持っていて、一見静かな受け身の男性のように見えるが、「逃げない」ことを心に決めた、つまり覚悟を決めた本当に強い人なのだ。
そして、法廷画家として、さまざまな事件の裁判の現場に立ち会ってもいる。
映画では、現実にあった事件の裁判のシーンが出てくる。
バブル崩壊、地下鉄サリン事件、その前後の数々の殺人事件。
こうした映画を通して、俯瞰するような目線で見ると、この日本に生きるということは、どんな人だって鬱ぐらいになって当たり前……のような気もする(実際、監督自身、鬱になったそうで、その経験が映画に活かされている)。
主人公のふたりが私と同世代ということもあり、また私が結婚したのもちょうど1993年で、その後の挫折に至る道――結婚(1999年に離婚)も 仕事も何もかも上手くいかなくて、私もちょっとした鬱状態だったと思う――を思い出すと、まるで自分のことを振り返って見ているようでもあり、妙に胸がざ わつき、激しく感情移入してしまった。
やがて、妻の翔子は出版社の仕事もやめ、美大出身だった経験を生かして、お寺の天井画を描き始め、少しずつ再生していき、カナオとも笑い合うようになる。
その日本画の、四季折々の花の絵がとても美しい。
世界は哀しい出来事や事件に満ちているけれど、そこにばかり焦点を合わせ、不安い煽られていてもよいことはない、現に花はこうして咲いているし、世界はもっと豊かなはず――そんなメッセージを感じた。
日本社会が大きく変質したバブル崩壊後の90年代初頭に立ち返り、自らの人生と世界を重ね合わせ、「人はどうすれば希望を持てるのか?」を検証したと言
う。
彼が導き出した答えは、「希望は人と人との間にある」ということ。
そうやって苦しみを乗り越えた実体験を反映させ、橋口亮輔はささやかな日常の中にあ
る希望の光を、1シーン1シーンをいつくしむ丁寧な演出で浮き上がらせる。――公式サイト<イントロダクション>より
日本の社会のありようと、もっと小さな個人とか夫婦のこと――人と人のつながりの大切さ――をとても深く丁寧に、ユーモアいっぱいに描いた慈愛に満ちた作品で、そう、そういうことを私も言いたかったんだ!と、今の私の気持ちを代弁してくれるような映画だった。
やはり、TVドラマにはない深さ、底力のようなものを感じた。
希望とは?と問われたら、こういう映画がつくられ、たくさんの人が観に来ていることが「希望」なのかも知れないと思う。
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