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2008年6月14日 (土)

失われた生きる喜び

 6月8日の秋葉原の事件について。
 加害者について、事件について何もかも知りたいような、もう何も知りたくないような相反する気持ちにかられている。

 真っ先に思い浮かべたのは、雨宮処凛さんの著書。
 過酷な状況で生きる若者のことが克明に綴られている。
 ネットの「マガジン9条」でも、秋葉原無差別殺人、の巻 という一文を書いているので、これを読めば、あの加害者の置かれた状況など、詳しくない人でもだいたい想像がつくのではないかと思う。

 しかし、そういった外部の要因だけとも思えない。
 今後、社会的、心理的な分析が山ほどされてゆくと思うので、いちいち述べないが、彼は生きる喜びのようなものを感じたことがほとんどなかったのではないか?と私は思う。
 厳しい人生だけれど、その中にも喜びや美しい瞬間はたくさんある。
 きっと、彼の両親は、学校の勉強という数値で図れるものにしか価値を見出さない人間だったのではないか。

 文学や芸術、音楽、おいしい食べ物、自然……人生の中で引き出しや愛する世界が多いほど、挫折したとき、そういったものが支えになるし、また人と人を結びつけるものにもなる。そういうつながりで、「友だち」もできる。
 ただゴロンとそこに存在し、「友だちがいない」「彼女がいない」とすねて、嘆かれても――つまりは、「俺を愛してほしい」という叫びなのだろうが――他人にはどうしようもない。 
 そのためには、それなりのコミュニケーションをとらなくてはならない(彼はそのとり方がわからなかったのだろうけれど)。

 父親が部屋着のような軽装で、自宅の庭先で謝罪の記者会見を開いているのを見たとき、妙な違和感を覚えた。
 この親もまた、世界や他者との関わり方が欠落しているのではないか?というような。

 外界の物事に感応し、他者に共感し、コミュニケーションが取れること。
 人生に喜びを見出し、生き抜く力は、そこから生まれる。
 何よりも大切なことであり、これは学校の授業では教えてくれない。
 今回の加害者に関わらず、こういった力を失っている人が多いような気がする。
(かくいう私も自信はないが……)
 幼少期の頃に接する親や周りの大人から学んでいくしかないのだけれど、大人そのものが精神的に貧困な場合、どうすればいいのだろう?
 今まで日本は、なんとなくお金でごまかせる部分も多かったけれど、経済も貧困となった今は、何もかもが剥き出しな感じだ。

 多くの人を殺し、傷つけた彼は、誰よりも自分を抹殺したかったのではないだろうか。
 この事件とは別に、自殺者が多いのも、地続きのことのような気がする。 
 
 GDPの低そうなイタリアとかキューバとか、なんか皆、そこそこ楽しそうにやってるような気がするけれど、貧しくても「食べて笑って歌って踊って」みたいにならんものかねえ(と、イタリアのこともキューバのこともよく知らず、極めてアバウトなこと言ってますが……)。

 なんにせよ、彼個人だけの問題ではなく、今の日本を象徴した事件であることは、間違いない。
 しかし、だからといって、許されることではなく、彼のまきぞえになった被害者の方々は本当にお気の毒である。

 

 以下、参考までに。

 評論家の東浩紀氏は、あくまで社会的な側面から、一種のテロとして見つめていて、これもひとつの的を得た分析だと思う。
絶望映す身勝手なテロ

 平川克美氏がブログで秋葉原の事件で、よくわからないことという日記を書かれており、この事件をどう捉えるべきかの手がかりになる。
 内田樹氏のブログにリンクが貼ってあったので、すでに読まれた方は多いかもしれないが。

 また別に、ちょっと心救われる思いがしたのは、『カラマーゾフの兄弟』の新訳をされた亀山郁夫氏の日記。
Cafe Karamazov←6月10日と12日を!
 ドストエフスキーの作品と絡めて、生命について根源的なことを言及されており、やはりテレビにひょこっと出てくる評論家(もどき?)の言葉と比べたら、深く重く、そして清々しい。
 やはり、文学の役割、必要性を感じるのであった。
(と言いつつ、私は『カラマーゾフの兄弟』未読なのですが。近いうちに挑戦したい。『罪と罰』は、大島弓子のマンガで読み、感動した記憶があるのだが……)

>秋葉原事件は、21世紀にはいって日本が根本から変わりつつあることを示す象徴的な
>事件として記憶されるような気がする。6.8事件として。
 Terrible,but (6月10日)より 

 という一文が印象的だ。

 きっと、ああ、あの事件がきっかけだったかも、と振り返って思うことがたくさん出てくるのだろう。これから……。
 心に与える不安感は量り知れないが、社会のシステムにも影響を与えるに違いない。 
 ちょっとでも挙動不審な者は職務質問され、街の至るところに監視カメラが置かれ、ネット上にも監視の目が光り、あやしい者は警察に密告され……。 
 そんな、ますます息苦しい、「社会主義国」のような社会が到来するのかも知れない。
 すでにそうなりつつあるし。
(厳しい監視も死刑も犯罪の抑止にはならないと思うんだけどな……事件の起こる背景を考えないと意味がない)

 さて、最後に、最近たまたま手にした『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧』 という本に、ダライ・ラマのこんな一説があった。

 

 私は常々、人生、生きられるのは百年だと考えています。
 
地球の歴史に比べれば、あっという間のできごとです。
 ですから、このごく短い人生を、せめてほかの人々に苦しみを与えないようにして過ごすべきです。
 
破壊的なことがらに手を染めず、建設的なことをして――少なくとも人に害を及ぼしたり迷惑をかけたりせずに――生きるべきです。

 そうすれば、旅人としてこの地球に滞在する短い期間にも、意味があるのではないでしょうか。

 

 苦しみを与えられてきた民族の、一番上に立つ人の言葉だから、なおさら重い。
 本当に短い人生なのに、人間は何をしているのだろうか?
 私も旅人のひとりとして、できるだけ、ほかの人に苦しみを与えないようにして生きたい。

 

 

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