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2007年6月24日 (日)

ピアノ・レッスン――映画にまつわるちょっとシリアスな思い出

 好きだとか影響を受けたとか、そんな言葉では言い尽くせないような映画に、まれに出会うことがある。
 私は最近、しきりとある1本の映画のことを思い出している。
 Piano
 オーストラリアのジェーン・カンピオン監督のピアノ・レッスン
 原題は、THE PIANO(1993年/日本公開は翌年だったかも?)。
 未婚の母であるスコットランドの女性エイダが主人公(ホリー・ハンター)。彼女は話すことができず(子どもの頃に話すことを自らやめてしまった)、ピアノと幼い娘(アンナ・パキン)だけの小さな宇宙に生きている。
 当時(明らかにされていないが19世紀末くらい?)、本当にそんなことがあったのかどうか、海を越えて、未開の地ニュージーランドの農夫(サム・ニール)の元へ嫁ぐことになる。もちろん、ピアノも一緒だ。しかし、夫はピアノを運ぶことを拒む。

 海辺に置き去りにされるピアノ――という、現実にはあり得ないシーンが、とても美しかった。

 そんな経緯もあり、エイダは夫になかなかうちとけることができず、夫の方も性的に不能だったりして、ふたりの距離は開くばかりになる。
 そこに現れるのが、夫とは対照的な野性的な魅力をもった男性ベインズ(ハーベイ・カイテル)。ベインズは、エイダのピアノを引き取り、彼女に「黒鍵の数だけ自分にレッスンをしてくれたら、ピアノを返す」と約束する。ピアノのレッスンを重ねながら、やがてふたりは自然と引き寄せられるように関係をもつようになる。
 彼は、エイダをまるでピアノを弾くように愛する。かたくなだった彼女の心と体は少しずつ溶けてゆく。
 一方、母親を愛しているが故に、ベインズに母を取られてしまったかのように感じていた娘は、母親の不貞を義理の父親に密告してしまう。そして、そこに待っていたものは……。

(ネタバレですが――
 エイダがピアノをどれほど愛していたか理解していたからだろう。夫は、斧を振り上げ、エイダの指を切り落とす……という、極めて残酷な代償が待っていた。
 恐ろしいシーンである。
 その後、エイダは夫と別れ、ベインズと娘、そしてピアノを伴なって、新しい土地へ行くことになる。
 その道中、船に乗せたピアノが海へ落下する。ピアノを縛っていた紐に、彼女もからまり引きずられ、ピアノと一緒に海へ沈んでゆく。
 エイダはピアノと一緒に沈んでしまう、死んでしまうのだ、と思った瞬間、彼女は見事に紐をすり抜け、浮上し、海面から顔を出し、深呼吸をする。
 海底に沈んでゆくピアノ。

 すべてのシーンがあまりに象徴的で、なんだか「よくできすぎている映画」という気がしつつも、初めて観た時の気持ちの、胸騒ぎというか心のゆらぎのようなもの、上手く言葉にできない「痛み」のような感覚は、未だにはっきり覚えている。
 映画館の暗闇のなかで、ひとり、スクリーンに向かいながら、「私もいつか必ず離婚するだろう」と、直感したのだ。
 「ピアノ・レッスン」を観た頃、結婚生活はこのままでいいのだろうか?と、悩んでいた時期だった。
 できれば先送りにしたいような、直面したくない直感だったが、それは頭で考えてというより、天から降りてきたような確信的なものだった。

 指を1本、失うこと。
 自分の分身であったピアノを海底に捨ててしまうこと。
 そんな代償を私も払うのだろうかと怯えた。

 私はかなりその代償を払うのを恐れていたらしい。離婚したのは、それから5年以上経ってからのことだ。
 離婚を後押ししたものは、他にもあるけれど、あの時、「ピアノ・レッスン」を観ていなかったら、どうだったろう……。
 私は直感したとおり、「指を1本失うくらい」の代償を払うことになり、それは今でも続いている。
 後悔はまったくしていない。でも、好きな映画は繰り返し観る方なのだが、「ピアノ・レッスン」は、その後1回くらいしか見返していない。
 Piano2マイケル・ナイマンの音楽も素晴らしく、サントラ盤は一時期よく聴いていたが、映画そのものを見返すのはなんだか怖いような気がするのだ。
 
 だから、おもしろいとか楽しいとかきれいだとか、心地よさだけではない、心をえぐられるような、と同時に思い出深い映画だ。

 思えば、私はピアノにひきずられながら、随分長い間、海底に沈んだままだったような気がする(もう人魚か?!っていうくらいだ)。
 
 最近、ようやく海面を照らす光に導かれ、浮上できたように思う。
 やっと、深呼吸ができたような……。
 安定した仕事に就けたのも大きな要因だし、今年になってから私のことを大事に思ってくれる人とも出会えたのも大きい。
 離婚後も、出会ってはやっぱり違う、また違った(そもそもこのブログは、そういうすったもんだのあれこれで始まっている/苦笑)……の繰り返しだったけれど、やっとこれからの人生の「連れ合い」と呼ぶに相応しい人に巡り会えたように思う。直感としてそう思う。
 あの日の直感も正しかったので、自分の直感は正しいと信じることにしている。

 だからもう悲しむことも、過去を振り返る必要もないんだよと、自分で自分に言い聞かせているのだけれど、それでもやはり、あの映画を観た日のことは忘れられない。
 いや、忘れる必要もないのだろう。そういう、「ちょっとシリアス」な思い出と共に生きていく。それでいいんだと思う。だからこそ、今が幸せに思える。

 指を切られ、義指をつけたエイダ。彼女がピアノを弾くたびに、義指がコツコツと鍵盤に当たる音がする。 
 でも、それこそが、かけがえのない彼女自身の音なのだ。 

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