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2007年1月 2日 (火)

本格小説――狂おしい愛の果てには

 Mm1_1 水村美苗の本格小説 上  を、元日の夕方ついに読み終わった。
 
 上下ともに600ページ近くあったこの物語に、昨年の晩秋から寄り添って生きてきたような気がするので、終わってしまって寂しい。なんだかちょっと気が抜けてしまった。
 
 さて、この『本格小説』は、ブロンテの『嵐が丘』という悲恋物語を、日本に置き換えた恋愛小説なのだけれど、恋愛だけに留まらず、日本の近代から現代に至るまでの歴史や風俗がしっかり描かれているのが興味深かった。時の移り変わりを背景にしつつ、時代の波には抗えず、人生を選択することなどあり得なかった主人公たち。そういう宿命のなかに生きているからこそ、身分違いの恋という悲恋がリアリティをもって迫ってくる。
 とにかく、登場人物の描写が素晴らしい。本当に実在していたとしか思えないような、個性的な人々。
 
 そして、日本にもかつて、僅かながら存在していた上流社会。私はなんとなく、白洲次郎などの生涯を思い浮かべていた。しかし、この『本格小説』に出てくる上流社会の男たちは、白洲次郎のようにタフではなく、戦後、日本の社会に大きな役割を果たすこともなく、「女・子ども」を残し戦争や病気で死んでゆくのである。やがて、家そのものも次第に没落して、消えてゆく……。

 悲恋ものと聞いて、三島由紀夫の『春の雪』(『豊饒の海』の第一巻)などを想像したが、ちょっと違った。もうちょっと通俗的、メロドラマ的というか現代的というか。でも決して下品にならず、上品なのが持ち味。
 姉妹がかしましく登場するところは、谷崎潤一郎の『細雪』を連想したり。
 外国の小説では、『嵐が丘』以外に、やはり貴族の没落を描いたブライヅヘッドふたたび (イヴリン・ウォー)やハワーズ・エンド (E.M.フォースター)など(この2作品は、映画やイギリスの昔のドラマで見たもので、実は原作は未読だが)。
 現代のものでは、ジュンパ・ラヒリの『その名にちなんで』やアリステア・マクラウドの『彼方なる歌に耳を澄ませよ』などを思い出す。テーマは違うけれど、ある家族を何世代かに渡って描き、時代と社会の変遷を反映させ、大きな物語を展開させているところなどが共通している。
 というように錚々たる作品が浮かんでくるので、やはりこれはそのタイトルどおり、最近の日本の小説の世界では失われつつある、大きな流れを描いた本格的な小説、正に『本格小説』なのだと思う。
 それでいて、読んでいるとわくわくするほど面白いという、エンターテインメント性もあるのだ。
 
 また、どこか現実離れした悲恋ものがテーマだけれど、それをしっかりと支え、リアリティを与えているのは、Mm2巧みな語り手の視点(その語り手が変化するのがいい)と、人物や家の描写など、ディテールをきっちり描いているからだろう。
 軽井沢の別荘や成城のお屋敷。そこで繰り広げられる、英国貴族のような優雅なお茶の時間の様子なども、ありありと眼に浮かんでくる。
 語り手に「女中」の冨美子をもってくるのも憎らしいほどに上手い(しかしラストではまたそれが一度思いがけない形で覆される)。
 虚構を支えるには、そんなふうに確かな技巧と描写力が必要なのだと思う。小説でも映画でも。

 悲恋の主人公は、車夫の甥である、社会の底辺を生きる東太郎という男と良家の子女であるよう子。ふたりとも極端な性格だ。理屈でなしに、まるで磁石のように惹かれ合う。そして、ふたりの恋愛小説であると同時に、太郎がアメリカへ渡り、大富豪となるまでの立身出世物語であり、同時に、少年から男への成長物語でもある。
 それらが、戦後の貧しい時代を経て、日本の高度経済成長期、バブル期、バブル崩壊以降と、巧みにリンクしているのも読みどころのひとつ。
 どん底から這い上がり、異国の地アメリカで巨万の富を手にしながらも、結局、太郎は好きな女ひとりも手に入れることができない。追いかけても追いかけても届かないのだ。なんということであろうか、無常……という言葉しか出てこない。哀しい。

 物語のラスト近く、太郎は、よう子に「ずっと殺したいと思っていた」と語る。

――あたしが死んでも、殺したいって思い続けてちょうだい。
――僕が死んだって、殺したい。

 もう、このセリフでやられた。洋の東西を問わず、近年、私が出会ったあらゆる映画や小説のなかで最も官能的で、強烈な言葉だ。
 死ぬほど愛することの行く着く先、狂おしいほどの愛の果ては、殺したいってことなのか……。
 
 しかし、無常の人生であり、結婚という約束された形で生涯を添い遂げることはできなかったけれど、わずかな時間でもそれだけの密度で愛し合えたことは「幸福」なのかもしれない。その「幸福」は、誰もが手にできるような、凡庸なものではないのだろう。だから読み手は、太郎がヒースクリフのようによう子の亡霊を求めて彷徨い歩くのも、自然なこととして受け入れられるのだ。
 
 このセリフに到達するためだけでも1200ページを読んでも損はない!と私が保証いたしましょう(笑)。

 などと、感想をそれなりに書こうとするのだけれど、どうもはかばかしくない。だって、あまりにもこの物語の世界が深く豊かで、いくら言葉を重ねても、その完成された世界に届かないような気がするから。だから、面白い!と言うしかなくなってしまう。

 ところで、薦めてくれた同世代の知人と、映画になるとしたら、誰がいいと思う?なんて話し合ったけれど、全然浮かんでこなかった。物語のなかにも「最近の人は、皆、小物になっちゃって」というようなセリフがあるけれど、正にそのとおりだからだろう。
 浮かんでくる女優さんは、岸恵子とか原節子とか、昔の人ばかり。顔がきれいなだけじゃなく、話し方、立ち居振舞いも美しい人というと、小津の映画に出ていたような昔の女優さんしか思い浮かばないのだ。
 ただひとり、現代を生きる青年として登場した祐介だけは、私なりにぴったりの俳優を発見。西島秀俊 。どうでしょう? ちょっと頼りなげで、平凡そうでありながら危ういというか憂いを含んだところなど、ぴったりだと思うのだけれど。TVドラマ「アンフェア」でも、謎の編集者役だったし。北野武監督の「Dolls」という映画では、不思議な悲恋ものを見事に演じていたし。
 一方、そんな祐介とは対照的な太郎のキャスティングがまた難しい。野性的で長身、色黒、強烈な何かを放ちながら荒々しく、でも哀しみを秘めた男。
――僕が死んだって、殺したい。
 と、こんなセリフを言えるのは、若かりし頃の松田優作くらい? って、もう亡くなってるし……。思えば、病に冒されつつもハリウッド映画に狂気迫る演技で出演していた彼も、これからは世界を目指さなくちゃと言い続けていたそうで、アメリカへ渡った東太郎とどこか重なるではないか。死んだ俳優しか浮かばない、現代にはいない、というところが、東太郎という主人公のスケールの大きさを現しているかもしれない。
(まあなんにせよ、下手に映像化されない方がいいなと思う)

 とにかく、『本格小説』を読んでいる間は、美しい日本語によって、日常ではないどこか別の違う世界へ連れて行かれるという、なかなかに至福の時であった。

(そして、物語の構成上、すべて読み終わった後に、冒頭へ戻り読み返したくなる衝動にかられる小説でもある……ので、読み終えてしまっても寂しくないことに気づいた)

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コメント

私の好みでは、東太郎のイメージは永沢俊矢でした。
ワイルドで身長もありそうで。
ちょっとKateさんの好みと違いそうかな?

投稿: ローズ・マダー | 2007年1月 4日 (木) 23:41

ローズ・マダーさん
永沢俊矢という名前でぱっと顔が浮かばず、
今、ネットで検索したらわかりました。
なるほど!
なかなかいい線いってますね(笑)。
私も結構好きですよ。
あと、若い頃の佐藤浩市なんかもどうかな、
なんて考えてました。
ワイルドでぎらぎらしているんだけれど、
陰りがある感じ。
今の若い俳優さんは、思い浮かびません!

投稿: Kate | 2007年1月 4日 (木) 23:52

ナルホド!その線があったか!
やっぱりワイルドさがポイントでしょうかね?

投稿: ローズ・マダー | 2007年1月 4日 (木) 23:54

「ヒースクリフと結婚すれば、わたしも落ちぶれてしまう。だから、愛しているけれど絶対にそうは言わないの。わたしがヒースクリフを愛しているのは、ハンサムだからなんていう理由からじゃないのよ、ネリー。ヒースクリフがわたし以上にわたしだからなの。魂が何でできているか知らないけど、ヒースクリフの魂とわたしの魂は同じ-エドガーの魂とは、月光と稲妻、霜と火くらいに掛け離れているのよ」(ブロンテ『嵐が丘』河島弘美訳・岩波文庫(上)p.163)
上記の引用箇所は、僕には『嵐が丘』と、その物語を換骨奪胎して現代の日本を舞台に甦らせた『本格小説』との本質的な繋がりの部分であると同時に、決定的な違いを示す一節のように思えます。

ヒースクリフは、キャサリンの「ヒースクリフと結婚すれば、わたしも落ちぶれてしまう」という言葉までを聞いて、後は聞かずに館を飛び出してしまうのですから、このすれ違いは、ちょうど『本格小説』における、よう子と太郎のすれ違いに対応していますね。そしてまた「ヒースクリフがわたし以上にわたしだからなの。魂が何でできているか知らないけど、ヒースクリフの魂とわたしの魂は同じ」という箇所も、まさによう子と太郎の絆のあり方に対応しているように思えます。

違いは、やはり日本の風土とイギリス北部ヨークシャー州の風土の違いに、そして時代の違いによるのでしょうか、『本格小説』の方が、やはりずっと優しい物語に仕上がっているという点にあると思います。人が、そして人々のものの考え方が優しい。『嵐が丘』の世界はもっとずっと荒々しく激しく苛酷ですね。

その代わり、kateさんがお書きになっているように、『本格小説』には、無常感とでも言うほかないものが漂っているように思えます。『嵐が丘』の結末が、永遠を感じさせるのと対照的です。よう子と太郎の強烈な恋愛(それはもはや恋愛という言葉すら適切ではないような、それこそ「同じ魂」を持った者同士の愛のかたちなのですが)すら、あれほどの痛切な情熱ですら、他の全ての人間的営みと同様、何の痕跡も残さず、自然の中に消えていく。文字通り「無」となっていく。

この地点において、今度は逆に、諸行無常の『本格小説』の方が、永遠の魂の救済を暗示する『嵐が丘』よりも苛酷な世界なのかも知れないと思わせられます。

いづれにしても、『本格小説』は、kateさんのおっしゃる通り、本来的な小説を読む喜びを感じさせてくれる作品ですね。kateさんの的確で素晴らしいご感想が読めて、とても嬉しく思いました。ありがとうございました。

投稿: 灯 | 2007年1月 5日 (金) 00:24

灯さん
灯さんこそ、深く掘り下げたコメントをありがとうございます。
新たな発見に満ちていて、『嵐が丘』をもう一度きちんと読み返してみたくなりました。

キリスト教と禅の違いとでも言いましょうか、そして、宗教以上に確かに風土の違いのようなものを感じますね。
「旅に病み 夢は 枯れ野を かけめぐる」
という松尾芭蕉の句を思い出しました。
『本格小説』のラストには、永遠の魂なんぞなく、夢だけが枯れ野をかけめぐるような、茫洋としたやるせなさが漂っている気がします。

ブロンテの生前のドレスをテレビで見た記憶がありますが、それはそれは華奢なものでした。若くして亡くなっているから、本当に寒風吹きすさぶヨークシャーの荒野で、命を削るようにして書き続け、その小さな身体も激しい魂も燃え尽きたのだと思います。
一方、水村美苗さんは経済学者の立派で素敵なダンナ様もいらして(笑)、我が道の文学を貫く!という余裕と貫禄を感じますが、失われてしまった痛みというか、何か虚無を抱えて現代に生きている方なんだろうと思います。

ああ、だけど次はやはり大元の『嵐が丘』再読ですかね。でも『本格小説』もまた読みたいし(読むべきものがありすぎて忙しい!/笑)。

こんな話をしていたら、明日、仕事へ行きたくなくなりました(笑)。
ワインでも飲みながら、この小説の話を夜通し、していたいです。

投稿: Kate | 2007年1月 5日 (金) 00:56

諸行無常という点では、物語の背景の時代ということもその言葉を思わせてくれるものですね。
最上流と言わないまでも、当時の水準からしたら飛びぬけて恵まれている二つの家同士の交流の中で、東太郎という全く違う世界の人間が現れて、同じ魂を持ったよう子と恋に落ちる。
その間の時代の流れの中で、徐々に財政的にも行き詰まって、最終的には、自分たちの知らないうちに、富の象徴であった別荘が東太郎によって買われていて、それが富美子さんに贈られていた。
まさしく諸業無常、残されたものといえば三姉妹の昔を思うことでのプライドなのでしょうか。
その中で、太郎とよう子と雅之の夢の世界でしかありえないような愛の世界は、無常に流れていく流れの中にふわりと舞い降りた淡雪のように美しく、脆いものでしたね。
本当のところは、都会の風景が汚くなって、「最近の人は、皆、小物になっちゃって」、太郎が「半分でも日本人でなくて良かった」と思う日本自体が、いちばん諸行無常の流れに翻弄されているのかもしれません。

投稿: ローズ・マダー | 2007年1月 6日 (土) 23:06

追伸:
私も次には「嵐が丘」を読みたくなりました。
その前に百年の長編を読んでからか、平行してになるのかな?

投稿: ローズ・マダー | 2007年1月 6日 (土) 23:10

ロース・マダーさん
太郎の「――もっとましな国になると思っていた」という言葉が印象的でした。
この言葉に作者の思いが集約されているようです。
だからローズ・マダーさんのおっしゃるとおり、この物語のもうひとりの、というか、
もうひとつの主人公は、日本そのもの、ということなのかもしれませんね。

そうそう、友人から教えてもらったのですが、吉田喜重という監督が、1988年に
中世の日本を舞台にした『嵐が丘』という映画を撮っているそうです。
で、ヒースクリフ役(その映画では鬼丸という役名)を松田優作がやって
いるんですって!
そう言えば、そんな映画があったなと思い出しました。
ちなみに、キャサリン役(絹という名前)を演じたのは、田中裕子だそうです。
ちょっと観てみたくなりました。
『嵐が丘』というのは、やはり何か強烈に引き付けるものがあるんでしょうね。

投稿: Kate | 2007年1月 6日 (土) 23:33

その映画、私も当時観たいと思っていて見逃したものでした。
レンタル店で探してみようか、それともまず原作を読もうか。。。
「見てから読むか、読んでから見るか」というのは
角川映画のキャッチコピーだったかな?

投稿: ローズ・マダー | 2007年1月 7日 (日) 00:11

こんにちは。
実は、今日「本格小説」を読み終えて、あまりの衝撃にサイトをさまよって、こちらに来てしまいました。
私も全く同じことを思っていました「嵐が丘」だ!って。そして「殺したいと思っていた」に、涙がドーッ!!!
ああ、もう、私がよう子なら、どうしただろう。
私が太郎ちゃんなら、あの駆け落ち事件の時に、よう子と結ばれたのに。
色々考えて、胸がドキドキ、心が苦しいです。
素晴らしい本ですが、泣けて泣けて仕方がない。
こんな風に、書き散らしてしまう私を許してください。
このブログがあってよかった・・。有り難うございます。

投稿: うるる | 2010年2月28日 (日) 09:06

うるるさん
コメントありがとうございます。
この記事をUpしてから随分経つのですが、
「本格小説 東太郎」「本格小説 東太郎 実在」とかいうキーワードで
検索して見に来る人がコンスタントにいます。
太郎ちゃん、ダントツ人気です(笑)。

この恋愛小説は知る人ぞ知る名作。
口当たりのいい軽いものが多いこの頃、こういったガツンと読み応えのある大作は、
もっと多くの人に読んでほしいですよね。

今は、水村美苗さんの次の作品を楽しみにしています。

投稿: Kate | 2010年2月28日 (日) 20:56

お返事有り難うございます。
「本格小説 東太郎」・・・まさにそれで検索して来ました(笑)
しかもココ、トップにHITしていましたよ。
貴女様ほど立派ではありませんが、思いの丈をブログで発散しました。お時間があれば、いらしてくださいね。

http://blogs.yahoo.co.jp/takaeru_3/10312861.html
ああ、太郎ちゃんとよう子ちゃん、二人とくっつけたい・・・妄想が膨らみますwww

投稿: うるる | 2010年3月 1日 (月) 19:45

うるるさん
うるるさんのブログのリンク、ありがとうございます。
太郎ちゃんの、職業人生的なモデルは実在したと思うけれど、あのキャラクターは水村美苗さんが創り上げたものだと思います。
でも、どこかに本当にいたような気がするんですよね。
それくらい存在感をもった、魅力的なキャラクターです。

投稿: Kate | 2010年3月 2日 (火) 08:54

はじめまして。
『本格小説』を先ほど読み終え、興奮冷めやらぬまま「本格小説 東太郎」で検索して、こちらのサイトにたどり着きました。
登場人物の全員に個性があり魅力的で、スピンオフ作品もいくらでも作れそうだな~と思います。
本当に、下手に映像化しないでほしいですよね。
今の芸能界のキャスト&スタッフでは、ろくなものが作れないと思います。
あ、でもコメント内の佐藤浩一さんは、かなりいい線いってると思います!
ちなみにわたしは雅之ちゃんが好きです。
割を食っちゃうタイプですが、一見穏やかで優しいのに、中身は意外と偏執的だったりするところがかわいいです(笑)
しかし「僕が死んだって殺したい」とか、言われてみたいですよね……。
わたしもあのシーンで鼻血出そうになりました(笑)
また、遊びにこさせていただきますね~。

投稿: あざらし | 2011年1月14日 (金) 03:19

あざらしさん
コメントありがとうございます。
この記事をupしてから、「東太郎 実在」「本格小説 東太郎」というキーワードで検索して見に来てくれる方が常にいらっしゃいます。
一般的にはそれほど知られた小説ではありませんが、「本好き」の間では知られざる名作で、読後、思わず、検索せずにはいられないようです(私もそうでした)。
また、この『本格小説』をきっかけに水村美苗ファンになる人が多いようです。
自伝的小説『私小説』も素晴らしいので、いつかまとめてみたいと思っています。
「僕が死んだって殺したい」……言われたら困っちゃうなあ(言われないけどね:笑)。

あまりマメに更新できないのですが、また覗きにいらしてください。

投稿: kate | 2011年1月14日 (金) 23:28

こんにちは。小説を読んで、こんなに魅了されたのは、何年ぶりでしょうか?この小説にとりつかれたようです。
だけど、冬絵が祐介に語った、「第2みどりアパート」での富美子と太郎の関係。とても、ショックでした。常識的に考えるとそんなことがあっても不思議ではないのですが。その事実が
語られたことによって、私の中で富美子の太郎への気持ちが少し別のものに変化したのです。ようこちゃんを最後に探しに行った時、いつもの頭の良い、富美子なら、必ず、屋根裏部屋も見たはずで、生死にかかわることなので、もっと必死になるはずで・・・太郎を女として愛するが故に、ようこちゃんが見つからなければいいなんてことも、無意識に思っていたかもしれないと思うのです。純愛物語として、気持ちよく感動していたのに、いっきに、どろどろした気持ちになって・・太郎ちゃんとふみこねえさんは、幼い頃のままの関係でいて欲しかった。そんな事実があったとしても、想像だけにとどめて、文面には、出して欲しくなかった。主役は、太郎ではなく、富美子さんなのかもしれないと思えてきました。
こんなことを思うのは、わたしだけでしょうか?

投稿: 軽井沢の木漏れ日 | 2011年6月28日 (火) 23:08

軽井沢の木漏れ日さん
コメントありがとうございます。
確かにあの冬絵さんの語りは生々しかったですね。でも、ああいう部分を描き切ったところが、水村美苗さんの洞察力というか、力量だと思います。
きれい事で済まさなかったのがかえってよかったです。でも、そう思えるのも自分が年を取ったからかなあ。若い頃に読んだら違う感想かも。

で、そうなのです、私も夢中になって読んで、しばらくしてから、本当の主人公は冨美子さんなのだ!と思いました。
かつて、日本の多くの庶民は彼女のような出身、立場の人がほとんどで、水村美苗さんはそこに、特に女性としての想いを込めたのでしょうね。

とにかく、文学に魅了されるというのはこういう体験なのだ!と思わせてくれる作品ですよね。

投稿: kate | 2011年6月28日 (火) 23:54

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