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2006年11月 5日 (日)

微笑みに出会う街角――トラウマの乗り越え方

 リアルタイムで劇場に観に行かなかったことを悔やむ映画がまたひとつ増えた。
 先日、WOWOWで放送された微笑みに出会う街角
 イタリアの大女優、ソフィア・ローレンの息子、エドアルド・ポンティが脚本、監督(親の七光りなんかではない、実力のある素晴らしい監督だと思う)。
 主演は、ソフィア・ローレン、ミラ・ソルヴィーノ、デボラ・カーラ・アンガーの3人の女優。
 それぞれの場所で、異なる立場、悩みを抱えつつ生きる3人の女性を同時進行で描いていく。まったくの他人同士なので交わることはないが、街角のちょっとした同じ出来事にそれぞれ関わっていたり、すれ違っている。そんな描き方が上手い。
 私たちもきっと、決して会話を交わすことはなくても、日々街角でこんなふうにひっそりと「見知らぬ誰か」とすれ違っているのだろう。
 原題は、“Between Strangers”。こちらのほうが絶対いい。
 だいたい「微笑みに出会う街角」なんていう、甘ったるい感傷的なタイトルとは、およそかけ離れた映画なのだから。

 極力説明を排し、女優の表情や仕草、ちょっとしたディティールで語ってゆき、全体に心地よい静謐感が漂う。
 
 以下、ネタバレです……

 ソフィア・ローレンが演じるのは、車椅子でしか動くのことできない過干渉な夫(ピート・ポスルスウェイト)をもつ主婦、オリビア。水色の上っ張りを着て、スーパーでパートをしている。
 そんな生活に疲れた役柄でも浮いて見えない。それでいて、美しいのだから素晴らしい。大女優たる所以か。
 実はオリビアには、隠れた絵の才能があり、その絵の源泉は夜毎見る「夢」からきているという。少女時代は、画家になるのが夢だったとも。しかし、バカにしてまったく取り合わない夫。
 ある日、彼女は、「秘密にしていたけれど、自分は10代の時に女の子を産んでおり、手放した。その彼女は、今彫刻家になっているのだ」と、夫に告白する。激昂するだけの夫とオリビアの間には、最早なんら通い合うものがないように見える。
 彼女の「夢」のモチーフは、実はその娘の彫刻のテーマと同じもの。
 そんな神秘的なストーリー展開も、映画に奥行きを与えている。

 ミラ・ソルヴィーノが演じるのは、高名なフォト・ジャーナリストの父をもち、やはり本人も駆け出しのフォトグラファーのナタリア。アフリカのアンゴラ地方で、戦火のなかで泣いている少女の写真を撮り、TIME誌の表紙を飾る。でも、彼女はどこか素直に喜べない。やがて、自分自身で曖昧にしていた記憶を探る。そして、少女を助けるよりも、写真を撮ってしまい、少女は、その後死んでしまったことに気づくのだ(当時はショック状態で覚えていなかった)。ナタリアは父親に、この仕事を続けることはできないと言う。
 父親を前にすると、いつも困ったような泣き出しそうな顔をしている。ナタリアが子どもの頃、クリスマスプレゼントに年代もののライカを贈るような父だ。そんな父親の期待に応えようと頑張ってきたけれど、もう無理……とでも言いたげな表情のナタリア。

 そして、デボラ・カーラ・アンガーが演じるのは、チェリストのキャシー。母親はDVの父親に殴られ続け殺されてしまった。そして父親は投獄されて……という暗い過去をもつ。
 22年間刑に服した父親が出所する頃、キャシーは精神のバランスを崩し、自分の家族のことも顧みなくなる。

 それぞれ、他人には打ち明けづらい、出口のない暗い思い――トラウマ――を抱えて生きている。
 そして、彼女たちはどうするのか?

 オリビアは、彫刻家の娘・アマンダのサイン会に出かけた際、他人を装いながら「夢が叶ってよかったわね」と声をかける。アマンダはお礼を言い、「夢がすべてよ」とオリビアに言う。
 その後、オリビアはアマンダが住むフィレンツェに旅立つことを決意する。絵の好きなオリビアにとってもフィレンツェは憧れの地だったのだ。それでどうなるものでもないだろうが、とにかくフィレンツェへ行くと決める。
 何の関心も理解も示そうとしなかった夫だが、しかし、さりげなく旅行のお金を彼女に渡す……。

 ところで、この夫役のピート・ポスルスウェイトも凄く上手い(代表作は「父の祈りを」など)。
「俺は、お前を必要となんかしていない。お前のほうが俺を必要としているんだ。子どもを捨てた罪悪感のために、車椅子の俺と結婚したんだ」
 などと言い放ち、激昂したため、目の前にあったワイングラスを倒し、ワインがかかってしまうシーンがあった。
 でも、「お前なんか必要ない」と言った手前、彼女に助けを求めることができない。
 そこで、オリビアは、というより――ソフィア・ローレンは、と言いたくなるのだが――じっと黙ったまま、夫を見つめ続ける。そして、何をするかと言うと、「ほら、ごらんなさい!」などとは叫ばず、ゆっくりと立ち上がり窓を開けると、豪雨の空を眺め、雨粒に当たるのだ。後ろでは、「何をしているんだ、窓を閉めろ!」とわめき続ける夫……。
 というシーンが秀逸だった。虚しさと緊張感が漂う、夫婦の間の重たい空気。
 こういうのを演出というのだろうな。そして、素晴らしい役者の力。

 ナタリアは、いったんフォト・ジャーリストをやめ、アンゴラへ、今度はボランティアとして向かう。なおも「写真で世界を変えろ。私を困らせるな」と言う父に、彼女はきっぱりと「これは私自身の問題なの」と、初めて父親に自分を主張する。

 一方、キャシーは出所してきた父親に、今までの憎しみをぶつける。銃を向け、「これで、死ぬ前の気持ちがわかる? ママの気持ちがわかる?」と迫る。
 銃で撃つことはなかったが、その後、キャシーと父親は心を通い合わせる時間もなく、父親は不慮の事故で死んでしまう。
 それでもやがて、彼女は父親を許すことができるようになる。同時に、その時、やっと自分自身も再生することができるのだ。

 「トラウマの乗り越え方」などという、大げさな(?)サブタイトルを付けてしまったが、別にこの映画はそれを具体的に教えてくれるわけではない。
 でも、3人のあり方を見ていると、出口を見つけるためには、恐れず自分を見つめ、そして一歩踏み出すことが必要なのだ、大切なのだということに気づかされる。

Img_0483_2 そんな3人が、ラストシーンの空港で、たまたま同じテーブルにつき、初めて出会う。
 天使のような女の子の笑い声につられて、3人は顔を見合わせて微笑む。
 だから、“Between Strangers”(微笑みの出会う街角、じゃないんだってば!)
 天使のような女の子は、オリビアにとってはかつて手放してしまった娘であり、ナタリアにとってはアンゴラの少女であり、キャシーにとっては疎遠になってしまった自分の小さな娘なのだろう。
 そして、夢をもっていた、かつての自分自身、少女の頃の自分でもある。
 
 もうひとつ、トラウマの乗り越え方があるとすれば――それは、そんな少女の頃の夢を思い出すことかもしれない。
 いろいろな解釈ができそうだけれど、私はそんなふうに受け止めた。 

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