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2006年10月に作成された記事

2006年10月14日 (土)

嫌われ松子の一生

 今週の木曜日から始まったドラマ「嫌われ松子の一生」を見た(TBS系/夜10時~)。
 「結婚できない男」で、桑野信介がからかい半分でいろんな人を小バカにしていても、嫌な感じは受けなかったのに(彼自身の照れが入っているのがわかったから)、これはいけない。徹底していやーな感じなのだ。なのに、最後まで見ずにはいられなかった。嫌だ、嫌だと思いながら、きっと最終回まで見てしまうに違いない。
 嫌なのは松子自身というより、彼女を取り囲む状況とか人間関係とか……。
 これと一番近い嫌な感じは、桐野夏生の『グロテスク』を読んだ時の印象か。 
 胸がざわざわする。虚しさや嫌悪感を持ちつつも、どこか自分とは切り離せない感じ。

 2006年の夏、荒れ放題の安アパートの一室で50代の女性が殺されている……。
 姪の明日香がその部屋を片付けるため訪れ、彼女の人生に思いを馳せるところから、物語が始まる。
 時は遡り……昭和48年、大学を卒業し、地元の福岡で教師になる松子は、厳格な父の元で育った清楚なお嬢さんだ。しかしその裏側は、抑圧的な父親とその楯にはなってくれない母親と関心をひとりで集める病弱な妹の間に挟まれ、今にも悲鳴をあげそうな状態。
 優等生でいることを自分に課してきた松子は、ノーが言えない人間になっており、善意が悪意に解釈され、少しずつ道から外れていく。
 そして、当時のあまりにもな「女性差別」な時代。
 差別されているという自覚も多くの女性は持っていなかったろうし、セクハラという言葉や概念すらなかった。
 松子は、私がまだ小学生の頃、大学を卒業し、社会に出たことになる。実社会の風に当たっていたわけではないが、あの頃の空気、雰囲気は私も皮膚感覚でわかる。
 女性は結婚以外の道を探そうとすると、さぞかし茨の道だったろうと思う。
 貞淑な妻になるか、転落か……松子は、教師という、貴重な自立への足がかりの職を失い、転落していってしまうのだ。 
 この前、一緒に仕事をしていた編集者&ジャーナリストのH(女性)さんと、私くらいの世代やもう少し下の世代の母親の偽善性みたいなことをひとしきり語り合ったのだけれど、こういう時代背景みたいなものもあって、どうしようもなかったのかも知れないと思う。
 今、昭和を懐かしむ声――あの頃はよかったみたいな――があるけれど、私はこの「嫌われ松子の一生」を見ていて、あんな時代、絶対嫌だ!と思った(と言って現代がいいとも言い切れないのだが……)。
 
 と、時代のことも切り離せないが、先日、小倉千加子さんと中村うさぎさんの対談本を読んでいたら、自分たちの母親世代は、「時代が、主人が、子どもが……と自分が何もできないこ と、しないことに対し、言い訳ばかりしている人が多いけれど、どんな時代でもどんな状況でもやる人はやる」というような言葉があって、はっとした。
 私自身もどこかで、時代とか生まれた境遇を言い訳にしてきたことがあるのではないだろうか?と。
 また、このブログの残酷な神が支配する の記事に対して、灯さんが「ルサンチマンを他人に伝染させるのではなく、忘却して、より喜びの大きな関係を作り上げていく力を育てていくことが大切」とい うコメントを寄せてくださったことを思い出した(こういうコメントをいただくと、ブログを書いていてよかったなあと心から思う)。
 松子はまさにルサンチマンを他人に伝染させ、それ故嫌われ者になり、本人も幸せになれなかった……のだろう。

 それにしても、嫌な感じ――と思わせながら、これだけのことを考えさせてしまうのだから、作品自体に力があるのだと思う。暗く澱んだ物語なのに、妙にカラッとしているところが、独特の持ち味。偽善者の自分を捨てて、むしろ嫌われることを快感にすら思っていくような女になる……のか? 
 でも、原作を読む気力はないかも(原作は山田宗樹氏/幻冬舎、すでに映画化もされている)。
 結局、殺されてしまうのがやりきれない。
 ドラマ自体も、見るのが精一杯で、感想レポートを毎週更新する気力は残っていないと思われるため、今ここで思いついたことをまとめてみた次第。

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2006年10月 9日 (月)

新進気鋭の建築家 黒崎敏さん

 ドラマ「結婚できない男」で主人公桑野信介の職業は、建築家。このドラマのせいで建築家が脚光を浴びている(?/笑)――というわけでもないのでしょうが、今日は、ドラマではなく、実在するリアルな建築家の方の話題。
(以下、以前のブログで2005年8月に書いたものを加筆・修正したものです)

 1_4もう4年ほど前のことだが、シングル女性が建築家に依頼して個性的な一戸建てを建てるという、なかなか勇ましい内容の本の編集を担当したことがある。タイトルは『女ひとり 思いどおりの家を建てる』(杉本薫著/マガジンサポート)、一度絶版になり、現在、改訂版が出て、シングル男性の家の事例も加え、建築家とつくる私だけの小さな家 という本になっている。
 シングルの女性が一戸建て?! そんな女性いないだろう!と思うかも知れないが、これが探してみると、確かに大勢はいないけれど、そこそこいたのである。
 だいたい皆さん、マンションを買おうかと思い探す→でも、気に入った物件がない、お仕着せのインテリアがいやだ(その他もろもろ)→建築家に辿り着く、というパターンが多かった。
 また、大手のハウスメーカーは一戸建てだと、「夫婦+子ども2人」というような家族像を基準にしてしまい、シングルは想定していないことがほとんど。しかし、建築家だと住まい方について1から相談できるし、コスト面でも考えてくれる。だから、建て売りをポンと買うのと違って、エネルギーは必要だけれど、納得のいく住まいを手に入れたければ、建築家に依頼するに限る!という結論に至る。今、そういう個別の要望に応えようとする建築家(それも若手の方)も大勢出てきているので、おもしろい時代になってきたと思う。

 さて、『女ひとり 思いどおりの家を建てる』の制作のなかで、取材させていただいたひとりが、黒崎敏さん。新進気鋭の若手建築家。
 黒崎さんは、神田神保町の、わずか7坪というスペースに、コンクリート造4階建て(+小屋裏)のSEVENという家を設計。7坪なので、SEVENという名前になったとのこと。
 コンクリート打ちっ放しの室内に、イームズの椅子が映える美しい空間。狭さを逆手に取り、縦に伸ばし、階段をひとつの舞台装置のように考えて設計されていたのが印象的だった。階段を上がるたびに、見える景色が変わっていく、というような感じで。
 取材の際は、建築家が設計すると、こういう空間になるんだ……と、吹き抜けを見上げながら、しきりと感心していた私。
 コンクリート自体もつやつやとした光沢を放っており、実に滑らか。かなり良質なものを使用しているそうで、コンクリートにそんなふうにグレードの差があるということも、初めて知った。コンクリート=冷たい、味気ない、という偏見がなくなった。

 2_1SEVENは、ありえない家 トーキョー狭小住宅物語 という本でも、詳細に取り上げられている。
 この本は他に、「ナチュラルエリップス」(建築設計/遠藤政樹氏+構造設計/池田昌弘氏)と「ロカーリ・パーリ」(建築家/舩津基氏)という、普通の発想からは思いもつかない、ぎりぎりの狭小土地のなかに建つ二軒の魅力的な家も掲載。
 特に、「ナチュラルエリップス」という独特なフォルムの家の設計にあたっての、構造計算と構造設計における苦労や緻密な進め方は感動的。実際に施工にあたるプロフェッショナルな人々……家というのは、実にたくさんの人たちの苦労や技が結集しているんだなと改めて思う。
 特に最近は「構造計算」なんてと言うと、耐震強度偽装問題が浮かぶけれど、本当はこんなふうに真剣に建築というのものに取り組んでいる人たちが大勢いるのだ。
 それにしても、東京という最悪の条件の場で、建築家の皆さんは涙ぐましい努力――それこそ利益が出るかどうかのせめぎ合い!――をしていらっしゃるなあとしみじみ。

 まだ30代の黒崎敏さんは、APOLLO というアトリエを主宰。家を建てたい人、建てられなくても美しい家を見てみたい人、HPをどうぞ。
 このSEVENでデビュー、話題になった方ですが、狭小住宅専門というわけでは決してなく、大きな家や集合住宅も手がけていらっしゃいます。

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2006年10月 1日 (日)

カポーティ

 9月30日公開のカポーティ(日比谷シャンテシネ)を観た。
 トルーマン・カポーティ(1924~1984年)が冷血を描くまでの6年間を追った映画。
 Img_0465_1カポーティを演じたのは、フィリップ・シーモア=ホフマンで、これが本当にカポーティにそっくり。以前、NHKの特集番組で生前のカポーティを見たことがあるけれど、それを思い出してみても、ちゃんと似ている。風貌を似せているだけでなく、彼のなかに凝縮されているエキセントリックさというかエッセンスが、見事なまでに再現されているのだ。
 
 1959年、平凡に暮らしていたカンザスの農家の4人家族が惨殺される事件が起きる。
 興味を持ったカポーティは、この事件を本にしようと犯人の2人の男に接触を試みるのだが……やがて、互いの間に不思議な濃密な関係が生まれ、カポーティは犯人のひとりに友情すら抱く。
「彼と私は同じ境遇で育った。でも、世の中への出方が違った。彼の場合は裏口から、私は表玄関からだった……」というセリフが印象的だった(再生できないので、正確ではないが)。
 そして、彼らの地獄巡りに同行したカポーティは、自身も危うい精神状態になっていく。
 なぜそこまでしなければならないのか――というところに、作家の業のようなものを感じた。
 それでもこの事件に関する作品を『冷血』として書き上げ、新境地を切り開いた傑作と評価されるのだ。
 やがて、描かれた犯人たちは死刑を宣告される。
 その死刑までをも見届けるカポーティの姿には、関わったからには地獄の果てまで見届けるという凄味を感じた。
 しかし、彼にとっての地獄巡りはこれで終わらなかったのである。この体験が、カポーティ自身に深い深い何かを残したのだろうと思う。それはたぶん、超えてはならぬ境界のようなものに足を踏み入れてしまった、というような何か……。
 この『冷血』後、カポーティは1冊も作品を書き上げず、未完の叶えられた祈り を残し、アルコールと薬物中毒で急死したという事実が、それを表している。
 この映画は、カポーティの稀有な作家人生を、『冷血』の期間だけに絞って描き、惨い事件をテーマにしながらも全体的に抑えたトーンで静謐感の漂う作品になっていたのがよかった。

 それにしても――その凄惨さに釣り合わない、不可解な殺人の動機。
 そんな事件が多発していく先進国の病んだ匂いを本能的に嗅ぎ付けたのが、カポーティだったのかも知れない。
 しかし、この事件さえも、現代の理由なき殺人事件と比べると、まだ「こちら側」にいる人間にも共感できるような素朴さを感じる。それもまた恐ろしい。

 ところで、私がカポーティを最初に読んだのは遠い声 遠い部屋 。細かい部分は覚えていないが、孤独な少年の視点で描かれたその世界は、全体に微熱を帯びているような、少し歪んでいて眩暈がしてくるような、不思議な魅力があった。
 そこから入ったので、初期の短篇は結構読んでいて、クリスマスの思い出 などは、毎年クリスマスの季節に必ず読み返すほど大好き(村上春樹の訳も◎、山本容子さんの版画も素敵)。
 また、カメレオンのための音楽という短篇集のなかの「美しい子ども」はマリリン・モンローを描いたもので、これがなんとも魅力的な話。
 ――と、好きな作品がたくさんあるのに、実はこの『冷血』はまだ未読。あのボリュームとテーマの前にたじろいでしまっていたのだ。でも、この映画を観て、俄然読んでみたくなった。

★おまけ★
 ところで、映画公開初日にわざわざ観に行く、なんていう普段しないことをしたのは、この9月30日がカポーティの誕生日だから(わかる人にはわかる、粋な計らい)。
 でもって、私自身の誕生日でもあるから、記念になることをしようと思ったのだ(でも、日比谷シャンテシネも銀座方面も凄い人出でくたびれた……)。
 だから毎年、誕生日が来るとカポーティのことを思い出しては、自分にはあんな毒もないし(あったら困るが/笑)、才能もないのだなあと――そんな天才と比べるのもおこがましいが――実感するのであった。

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