« 紫陽花、紅茶、そしてサッカー | トップページ | 結婚できない男――ほっといてください。 »

2006年7月 8日 (土)

ゲド戦記――ファンタジーの力

 スタジオジブリの映画『ゲド戦記』が、もうじき公開される。
 不覚にも私はこのゲド・シリーズ をまったく読んでおらず、ジブリの映画を先に見てしまうとそのイメージが先行してしまうと思い、慌ててル=グウィンの原作を読んでみた(ジブリの映画の評価は賛否両論といった感じらしいけれど、原作を読むきっかけを作ってくれたということで、感謝)。

 Gedo_1と言っても読んだのは、まだ第1巻目『ゲド戦記Ⅰ――影との戦い』 (おとなには、小さい判のソフトカバー版 がおすすめ) だけ(全6巻)。それでも、この物語のもつ力はよくわかったし、凄く感動した。
 スケールが大きく、魔法使いの修業をしている主人公ゲドの心の葛藤が丹念に描かれており、読み応えたっぷり。おとなでも……いや、おとなにこそ読んでほしい本。
 こういうのを食わず嫌いというのだなと思った。私はどちらかというと、壮大な架空世界のファンタジーより、現実ともう少し地続きな感じのファンタジーの方が好きなので(『モモ』とか『トムは真夜中の庭で』など)、ゲドはなんとなく避けていたのだ。でも、『指輪物語』の映画も感動したので、こういった、もうひとつの架空世界を構築しているハイファンタジーも読んでもいいかも……と思い始めていたところだった。
 『指輪物語』などの流れを組むファンタジーだし、ハリー・ポッターだって、ゲドがなかったら、生まれてこなかっただろう。魔法使いの修業のために、魔法学院へ入学する、というハリポタの設定はゲドから来ているのだ。
 そして、ストーリー自体も凄いのだけれど、例えば具体的に、私がノックアウトされたのは、こんな表現。

――今、そなたがこの島を出れば、そなたが放ったものはたちまちのうちにそなたを見つけ出して、そなたの中に入りこみ、そなたをとりこにしてしまおうぞ。そうなれば、そなたはあやつり人形にしかすぎなくなる。この地上の光の中にそなたが放ったあの邪悪な影は、そなたを思いのままに動かすようになる。
P105 影を放つ

 これって、最近私がいろいろ読んで勉強しているモラル・ハラスメントについてのことと、ぴったり合致するではないか。ちょっと鳥肌が立った。
 ゲドが出版されたのは、1968年(日本では1976年に初版発行)。なんと、40年近くも前に、すでに「答え」はそこにあったのだ。しかし、そこに到達するまでに、なんと長い時間がかかったことか。あるいは、さまざまな経験を経て、曲がりなりにもおとなになった今だからこそ、それを「答え」と感じられるのか。

 というわけで、先月6月24日、『ゲド戦記』の翻訳者であり、児童文学研究者の清水眞砂子さんの講演会『ゲド戦記の世界』(紀伊國屋サザンシアター)を聞きに行った。清水さんのお話にまた感動。
 かいつまんで、その一部を。

――もし、ル=グウィンがこのゲドのような世界を写実的な文で描こうとしたら、それは膨大なものになるだろう。でも、ファンタジーには時代考証もいらない、現実に足を引っ張られないから、ものごとの原理的・哲学的な問いかけができる。根源気的なものが表現できる。
 だから、ファンタジーは、現実を映し出す鏡(隠喩)。私たちの身の回りにたくさん起きていること。実は、写実的なのだ。

 そう、私が前述で感じたことが、正にそれだと思う!

――意味からこぼれ出る膨大な豊かさ
 物語は、意味を追い求めると痩せ細る。意味以外の、細部こそが大切。物語を読む時は、意味だけを読むのではない。意味からこぼれるものが、物語を豊にしてくれる

 これは、作家の保坂和志さんも、ストーリー以外の細部や情景描写こそが大切、とよく言っている。例えば、ゲドの友人、カラスノエンドウの描写などがそれに当たる。 
 私も、カラスノエンドウは大好き。『指輪物語』の庭師サムと似た役割を果たす登場人物。戦いのシーンだけでなく、こういう描写があると、ほっとする。

 また、英語の作品を日本語に翻訳するということが、どれほど繊細で危うい作業か、ということもよくわかった。
 
――ゲドがテナーという女性と結婚し、家庭をもってからの話。食事の後片付けをしたがらない息子にテナーは「ゲドだって食器を運んでくれるのよ」と翻訳してから、はっとして慌てて、「ゲドも食器を運ぶのよ」に訳し直した。
 運んでくれる。○○してくれる。○○してくれない。
 この表現というのは、日本語独特で、これに相当する英語の表現というのはない。
 「運んでくれるのよ」の一言で、ル=グウィンの世界を壊してしまう。
 実はル=グウィンは、アメリカのフェミニズムの騎士ともいうべき人で、運動を担ってきた人なのだ。

 意外な事実。というより、やはりそういった思想がベースになっているのだと、なんだか凄く納得。ル=グウィンは子どももいたので、フェミニズム運動をしながら、家庭を築くことへの後ろめたさを抱き、子どもをもつことが悪いような気がしていたそうだ(そういう時代だったんですよねえ)。
 テナーという女性は、生活べったりではなく、男性論理を一度くぐり抜け、それからまた生活へくぐり抜けてきた人物で、そういう言葉を喋っていると清水さんは言う。ル=グゥインにそのまま重なるかも知れない。そういう成熟したフェミニズムを日本語でどう表現すべきか、ということに心を砕いたそうだ。

 やはり、ふわーっと生きて、想像の翼を広げれば、ファンタジーが書けるってもんではないんだなあと思った。当たり前だけど。

 清水さんは、ゲドを翻訳するにあたり、高校の教師の職も退き、翻訳だけに専念していたのでとても貧乏で大変だったけれど、ゲドの物語のなかで生きている、この世界を生きていると感じて、幸せだったそうだ。

 それから、子どもに最初に覚えてほしい言葉は、「Noと言えること」と言っていた。我慢と辛抱は、違う、と。これも、子どもだけでなく、女性に当てはめてもまったくいいと思う!
 奈良の高校生が自宅を放火し、義母ときょうだいを死なせてしまった事件にも触れ、なぜ彼はあそこまで我慢してしまったのか、我慢しなければよかったのに……としみじみと言っていた。いやと言えたら、どんなに解放されるか。
 
 親に虐待される子ども、夫に肉体的暴力やモラル・ハラスメントを受ける女性の危険性はそこだ。我慢して我慢して、それが臨界点に達した時、被害者が加害者に転じること。相手を殺してしまい、逆に加害者になってしまうことだ。「元加害者」に、「元被害者」は、完全に人生を奪われてしまう。

 さて、『ゲド戦記Ⅰ――影との戦い』を読んでいて、後半から、もしかしてこの不吉な影の正体は……とわかり始めて、ドキドキしながら読んだら、果たしてそのとおりだった。
 ル=グウィンは東洋思想も学んだ人なので、善×悪をはっきり分けて描き、対立させる書き方はしない。そういうところが、日本でとても人気のある理由ではないか、と清水さんも言っていた。 
 また、ゲドのもうひとつの大きなテーマは「真の名前」ということ。言葉がもつ力を考えさせられる。これもまた、日本の神道における「言霊」などを連想させる。
 とにかく、全巻読破しなくては!
 ちなみに、ジブリのアニメは、3巻めがメインになっており、ゲドの息子アレンを主人公として描いている。物語の前後関係を把握するためには、やはり原作を読んでからのほうが、私は楽しめそうだ(あ、あと、アレンの吹き替えは、岡田准一クンです)。

――いったん石のとりことなれば、相手は影を城内に入れるだろう。人間よりも魔性のもののほうが奴隷としてはいいのだから。あの石に触れ、話しかけていたら、完全にこちらの負けだった。だが、影がこちらに追いつくことができなかったように、あの石もついにこちらを誘惑できなかった。ゲドはほとんど敵方の掌中にあったが、しかし、完全とまではいっていなかった。彼は自分をすっかりゆだねてしまってはいなかったからである。他者に己をゆだねない人間を支配するのは悪にとってひどくやっかいなことだ。
P183 ハヤブサは飛ぶ

――もしも、このまま、先へ先へと逃げて行けば、どこへいっても危険と災いがそなたを待ち受けておるじゃろう。そなたを駆り立てているのはむこうじゃからの。今までは、むこうがそなたの行く道を決めてきた。だが、これからはそなたが決めなくてはならぬ。そなたを追ってきたものを、今度はそなたが追うのじゃ。そなたを追ってきた狩人はそなたが狩らねばならん。
P195 ハヤブサは飛ぶ

 ファンタジーは現実の隠喩、というのがよくわかる。
 巷に溢れる心理学や処世術やらの本のなかで、40年後も読まれ続けるものは何冊あるだろう? ファンタジーには、人間の根源的なものが映し出されており、色褪せることがない。それがファンタジーや文学だけに限らず、芸術の力であり役割なのかも。

 嬉しいこぼれ話もあり。ル=グウィンは、トールキンの『指輪物語』の老賢者ガンダルフに思いを馳せ、彼の少年時代はどんなふうだったのだろう?と想像したところから、ゲドが生まれたのだそうだ。
 つまり、ゲドは、ガンダルフの少年期・青年期の姿なのだ!
 と、こういう話には本当にワクワクする。
 やはり、世界はつながっている。

 ガンダルフは私にとっても人生の師。この言葉も、私の人生にぴったりそのまま当てはまる。

フロド(ホビット族)
「指輪さえ、もらわなければ、こんな旅に出ることもなかったのに.……」
ガンダルフ(老賢者)
「それがおまえに与えられた試練なのだ。そんなことより、今何をすべきかを考えることが大切だ」
――映画『ロード・オブ・ザ・リング』より 

 で、最近になって知ったことだが、あの奈良の放火事件の高校生は、父親に医者になることを強要され暴力も振るわれていたらしい。胸の痛む事件だ。典型的なACである。そして、ハリー・ポッターの大ファンなんだとか。ああ、ハリポタじゃなくて、ゲドを読め、と言いたい。
 ゲドを読んでいたら……もしかしたら、あんな事件を起こさずに済んだかも知れないのに。私は半ば本気でそう思っている。つまり、ゲドとはそういう物語なのだ(ハリポタは楽しいけど、子どもの好きな柔らかくて甘いお菓子しか入ってない感じなんだもの。固いものを消化できなくなってしまう)。

――すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだ。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはやその生を差し出すことはないだろう。
P269 世界の果てへ

 この引用部分を入力していて、自分にも引きつけて考え、あらためてまたびっくり。
 つい昨夜、友人と電話で話していたことと、まったく同じことだからだ。
 世界はつながっている?!
 この話の内容や経緯は、いつかまた別の機会に。

|
|

« 紫陽花、紅茶、そしてサッカー | トップページ | 結婚できない男――ほっといてください。 »

コメント

いやあ、すばらしい! 一気に読みたくなりました。ありがとう!

投稿: beeswing | 2006年7月 9日 (日) 11:50

お久しぶり(笑)。
ゲド戦記、いいですよね~、大好きです。
私は河合隼雄さんがその著書ですすめていたのがきっかけで読みました。でも当時はまだ3巻までしか出てなかった(っていうか、3巻で終わりの予定だったような?)。
ファンタジーものって、実は好きではないのだけれど、ゲドだけはなぜか好きで、今でも年に1回は読み返すくらいです(私もカラスノエンドウ、好きデス)。
ジブリの映画は、どんなふうになってるのでしょうね。久しぶりに映画館行ってみようかなぁ。

投稿: eco | 2006年7月10日 (月) 11:21

ecoさん
やっぱり、ゲド、お好きだったんですね!
そう言えば、翻訳した清水さんは、河合隼雄さんの分析は素晴らしいけれど、意味を求めすぎてしまうから、物語を楽しむには、読まない方がいい……というようなことを仰ってました(笑)。

投稿: Kate | 2006年7月10日 (月) 22:52

>河合隼雄さんの分析は素晴らしいけれど、意味を求めすぎてしまうから、物語を楽しむには、読まない方がいい

これ↑すごいよく分かる~(笑)。
ファンタジーって読み手によってどのようにも読めてしまうから、それが素晴らしいところでもあると思うので、河合さんの分析が一つの方向性を示してしまうことに、おそらく翻訳者や作者は「いやだなぁ」と感じるのでは…。
ただ、私としては、河合さんの分析が実にぴったりとはまってしまったので、それでゲドのファンになったという部分が大きいです。そういう人間も中にはいるので、まあ人それぞれということで(笑)。
Kateさんはどこまで読み進んだでしょうか。2巻以降の感想など、またブログに書いてくださいね。

投稿: eco | 2006年7月16日 (日) 22:27

ecoさん

私も、他のファンタジーは河合さんの本をきっかけに読むようになったので、それはそれでよかったと思います。
今、2巻目を読んでいるところです。
テナーの巫女修業の話もおもしろいです。
またいろいろ書きたいですが、ル=グウィンの世界は深くて大きいので、たかが一個人のブログでの感想とはいえ、非常にエネルギーを使うので、次も書けるかどうか……(笑)。

投稿: Kate | 2006年7月17日 (月) 00:00

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/84419/2546520

この記事へのトラックバック一覧です: ゲド戦記――ファンタジーの力:

« 紫陽花、紅茶、そしてサッカー | トップページ | 結婚できない男――ほっといてください。 »