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2006年7月に作成された記事

2006年7月25日 (火)

結婚できない男――こういうウンチク男、どこかで見たような

 『結婚できない男』、今夜も笑わせてもらいました。
 すべてのシーンに笑いのツボと辛辣さとちょっとしんみりさせるところが、ぎっしり詰まっていて、どこがおもしろかったと一言では言えない。

 それにしもて、阿部寛演じる桑野信介――あのウンチク好き、「一般大衆」を小馬鹿にする感じなどなど、結婚できる、できないは別として、あの種の男性がいることは事実。
 離婚した、私の元夫もそうだったから(笑)、思い出してしまった。
 桑野信介ほどオタクではなかったが、ゴダールのウンチク話はよく聞かされた。何を語っていたのか、今となってはもう何も思い出せない。鈴木清順の風変わりな、ながーい映画も彼のお気に入りだった。膨大なレコードや本を大事に抱え、高級自転車を狭い部屋の廊下に置きたがった。勢いで結婚してしまったけれど、今思うと、ほんと結婚しちゃいけない男だったなあ(ま、それはお互いさまの部分もあったが)。
 あと、街中に出ると「なんで、こんなに人が多いんだ。まったく、どいつもこいつも、うろちょろしやがって、何がおもしろいんだ!」みたいなことをよくまくしてたてていた。
 さらには「田舎者がぞろぞろ出てきやがって」。
 私自身に対しては暴言は吐かなかったけれど……とにかく、そうやって悪態をつくのが楽しいらしかった。だから、相槌を打ってあげないと不機嫌になるのだった。
 街中の人込み嫌いで言えば、自分だって、その人込みの要因をつくっているひとりなのに、自分は違うらしい。
 それでいて、妙に職人とか下町好きで、そういうものに対しては評価が高い。自分は、粋がわかる都会の人間(江戸っ子)だと思いたいらしい。
 だから、桑野信介が、浅草で飴細工職人の包丁さばきをじっと見つめたあと、目を細めて「プロだな」と、ひとり呟くシーンでは、爆笑してしまった。わあ、いかにも言いそうと思って。
 う、うま過ぎる、この演出! そして阿部ちゃんの演技! もう演技とは思えないんですけど(笑)。
 こんなディティールをよく描いてるなあと、笑いながら――ま、私もひとりで笑ってるわけですが――感心することしきり。

 ブログでもこのドラマの話題は多い。
 それから、桑野信介が聴いている音楽はクラシックだが、選曲もなかなか優れているらしい。
 というのを、知人のブログで知った。これを読むと、番組中でかかった曲名がわかる(笑)→CLASSICA
 私はこのブログで「クラヲタ」という言葉を知りました(笑)。

 それから、建築家の仕事、事務所の雰囲気、アシスタントの使い方、建築現場での大工さんとのやり取り、建築プロデューサーのお仕事など、違和感なく描かれているなあと思ったら(ドラマってそれはないでしょ~!みたいなことが多いが)、やはり本物の建築プロデューサーの方が協力しているそうだ。
 ということが書かれているブログも発見しちゃいました→業界唯一完全独立系建築プロデューサー

 そう言えば、前回のことになるけれど、その建築プロデューサー役の高島礼子のセリフに、「私もマンションほしいと思っていたんだけど、桑野が設計した家を見ているうちに、ああ、こんな家で誰かと暮らしたいなあと思うようになったの。だから、マンション買うのはやめました」というようなのがあった。
 これにはいたく共感。私も仕事で、建築家が設計した家を何軒か見たけれど、あれを見てしまうと、お仕着せのような画一的なマンションなんて、ほんと色褪せて見えるのだ。
 あのセリフには、バリバリ仕事をしていたとてしても、ひとりの女性としての切実な実感というか憧れみたいなものがこもっていたと思う。

 さて、今回は花火大会の絶景をひとり占めにして、ひとりで楽しんでいた桑野信介。
 ここでも、キリッと冷えた白ワインや上品なオードブルを、「自分だけのために」周到に準備していた、というのにまた爆笑。
 本当に分かち合うということをしない人だ。早坂先生が来るのをちょっぴり期待していたみたいだけど(笑)。
 
 とにかく、こういう人は、自立しているのではなく、孤立しているのだそうだ。
 内田樹氏によると→内田樹研究室―消費税なんか怖くない

 
 このままでは、毎週火曜日このドラマを見たあとは、何か書かずにはいられないくなるなあ。来週は自制するぞー。

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2006年7月24日 (月)

ワーキング・プア――働いても働いても豊かになれない

 NHKで「ワーキング・プア――働いても働いても豊かになれない」という特集番組をやっていた(7月23日21時放映)。

 イギリスのジャーナリスト、ポリー・トインビーが『ハードワーク――低賃金で働くということ』という本のなかで述べていた状況が、日本でもほぼ同じ形で進行していることがよくわかった(過去のブログで、この本について詳しく書いています。こちら をどうぞ)。
 ワーキング・プアとは、働く意志があるのに職に就けない、あるいはアルバイトなどの非正規雇用にしか就けず低賃金で、生活保護レベル以下の暮らしを強いられる人々のことを言うらしい。
 働いても働いても貧しい。その負のスパイラルから逃れられない。
 いつからこんな言われ方をするようになったのかわからないけれど、凄くよく言い当てている言葉だ。

 番組のなかでは、交通費がないため面接に行けず、職に就けない34歳のホームレスの男性や過疎化が進み農業では食べていけない家族(秋田県)、職人としての腕は持っているのに街がシャッター街と化し、売り上げがほとんどない仕立屋さん、リストラされてガソリンスタンドのアルバイトを3つもかけ持ちしている50歳のシングル・ファザーなどが登場していた。
 どの人もまじめで、怠けようとしている人なんて、ひとりもいなかった。
 仕立屋さんは、アルツハイマーで入院している妻もいて、介護保険や医療負担がどんどん厳しくなっているのを嘆いていた。生活保護を考えるけれど、妻の葬式代としての貯金100万があると、保護は受けられない……1食の食費代は、100円と言っていた。
 「この缶詰がね、結構うまいんだよ」と、缶詰1缶と3パック99円の納豆を1パック。
 また、秋田県では過疎化がひどく、廃村になったところがいくつもあるらしい。
 お米や野菜をつくることでは食べていけない国。
 食料自給率がこんなに低いのに、これから先どうなってしまうのだろう?と、番組を見ながら暗澹たる気持ちになる。

 本人の怠惰のせいではなく、明らかに今の日本の構造上の問題、と専門家も指摘。
 働いても働いても這い上がれない層が現在10%~20%がいる(特に地方)、そういった層が社会に沈殿していくことは非常に重大な問題、とも。 
 日本人は我慢強いから、外国ほど犯罪に走ったりしない。その代わり、自殺率が年々上昇しているのかと思う。

 34歳のホームレスの男性は、見たところ健康そうだし、性格も穏やかないい人そう(に見える)。アルバイトでやってきて職業経験があまりないからと、こういう人が職にも就けず、ホームレスなんていう事態は、社会にとっても損失なのではないだろうか?(かろうじて就けたのは、時給800円の洗車のバイト)
 一文なしの専業主婦だって、DV夫から逃れるためのシェルターがあるのだから、こういう人たちを救済するシェルターがあってもよいのに。
 そういうことにこそ、税金を使ってほしいもんだ。
 もうひとりの30代のホームレスの男性は、両親の離婚後、母親が養育放棄、高校生だった彼はアルバイトに明け暮れ、就職活動もできず、そのままアルバイト人生で、30を過ぎてそのバイトもなくなり、今は古雑誌を拾ってその日暮らしだそうだ。
 これは、教育格差がそのまま後の経済格差につながるパターン。
 50歳のシングル・ファザーは「子どもたちを大学にやれないかも知れない……親の責任だ」と涙ぐんでいた。
 いや、それはあなたの責任ではなく、国の責任だと言いたかった。
 日本は、奨学金も充実していないからねえ……。

 ほんのちょっとレールから外れてしまうと、こんな現実が待っている日本。
 小泉首相が掲げてきた構造改革とは一体なんだったのだろう。

 ……などということを真剣に考えてしまった。
 こういう番組を見ると、他人事とは思えない。
 私も離婚後、つい最近まで、かなり長い間、まさしくワーキング・プア!だったから。
 この数年、アルバイト、派遣、フリーランスと綱渡りのように生きてきた。働いても働いても這い上がれなかった。
 今だって別に、全然リッチではないし、今のところ正社員ではないけれど、毎月、固定給と最低限の社会保険だけは得ることができた。
 番組でも、「30過ぎると仕事がない」という言葉が度々出てきたけれど、40代に突入してしまった私が――それこそ学歴もコネもなーんにもない!――よくもサバイバルしてきたものだと、自分のことも顧みたりして妙に感慨にふけってしまった。この年齢で「まともな職」を探すことは、本当に厳しい。厳しいというか、ほとんど不可能といっていい。

 それでもなんとかサバイバルできたのは、きっと、私が人に依存する(頼る)術に長けていたのと、それに応えて助けてくれる人に恵まれていたからだ。内田樹氏によると、そういう術もこの世界をサバイバルするためには必要な力、とのことらしいが……。
 30代の男性ふたりに関して言えば、こんなふうに「人に頼る」術もなく、人間関係をつくる余裕もなかったのか、社会や人とのつながりの輪からポツンと切り離されてしまっている印象を受けて、胸が痛む。

 思うことはいろいろあるが、自分に関しては、これ以上あまり人に頼らず、当面ひとりで生きていくためには、今の仕事を続けることが一番で、そのためには健康が一番だと思う。

 それにしても、弱いのは、貧乏なのは、努力が足りないとか自己責任だという考え方は嫌いだ。
 今、「強い人」だって、先はどうなるかわからない。いつ「弱い人」になるかわからないのだから。
 そういうことを私は忘れたくない。

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2006年7月23日 (日)

ティーポット――モノのカタチ

 陽の光を何日、見ていないだろう……? すっきりしない日が続きます。今日は軽い話題を。

Img_0129_2_1 これは今年の初め、「私の部屋」という生活雑貨店のセールで買ったティーポット。前から大きなティーポットを探していたので、ぴったりだなと。ポルトガル製で、4000円くらいのが半額になっていて、やった!と思って。ところが、いざ使い始めてみると、これがまた憎たらしいほど使いにくい。
 注ぎ口のところが真っ直ぐなので、紅茶がやけに勢いよく、まるでジョウロのようにドボドボと出てくる。椅子に座って、テーブルの上のカップに注ごうとしても、どうも動作がスムースにいかない。あまりにでかすぎて、ティーコゼーもキツキツ。容量が多すぎて、お湯と茶葉の量がどうもいい按配にいかない。などなどの理由で、紅茶をおいしいく煎れられない。こうして見ると、本当に植木の水やりのジョウロそのもの(笑)。
 なるほど、このポルトガルの陶器、他にもいろんなアイテムがあったけれど、出ているだけ販売で終了、というのがよくわかった。セールになっていたのもなるほどだ。買い付け失敗したのね、「私の部屋」のバイヤーさん。
 なので、使うのをやめた。しばらく棚に放置していたが、でっかくて邪魔だし、見るたびに腹が立つので、不燃ゴミに出してしまった。うぅ……。

Img_0131_2_1 というわけで、前から使っていたカレル・チャペックという日本の紅茶のメーカーで出しているポットが復活。もともとこれで十分だったのだけれど、あともうちょっとだけ多く入るといいなと思ったのだ(紅茶、飲みすぎって気もするけど)。 これは、注ぎ口のところがうまい具合にカーブが出ていて、液垂れしないようになっている。お湯を注いだ時に茶葉がジャンピングしやすい、ぽってりとした形。これぞ、まさにティーポットのなかのティーポット。よく考えられている。
 これを持っていたのだから、わざわざジョウロみたいなポット買う必要なかったなあ。あと、もうちょっとだけ容量があれば完璧なのだが。

 
 本当は、これが一番、愛するティーポットだった。
 ロイヤル・コペンハーゲンのティーポット。形も容量も私にちょうどよかった。カップのように直接口をつけるわけではないし、形さえよけれは何でもいいだろうと思うのだが、やはりいい磁器のものでお茶を煎れると、おいしくなるような気がするのだ。
 しかし、注ぎ口のところが、激しく欠けてしまった(写真ではわからないけれど、この後ろ側がガッツリ欠けていて、注ぐことができない……涙)。だから、カレル・チャペックのポットは、二番手。
 Img_0132_1このロイヤルコペンハーゲンのポットは、修理する手立てもないのに、惜しくて捨てられず、往生際悪くしまい込んである。
 たまたまB級品を安く買えたのだけれど、まともに買うと3万以上する。
 このロイヤルコペンハーゲンほど高くない、ブランド品ではない、いいティーポットはないものかと探しているのだけれど、これがまたない!
 カップはあれこれ種類が豊富なのに、ポットはほんとに少ない。ポットでちゃんと紅茶煎れる人、少ないのかしら? 「私の部屋」にも、いいものはない。
 北欧のメーカーで探したけれど、やけにお洒落っぽい、ストンとしたカタチが多く、ポルトガルのデカポットの二の舞になるかもと警戒しているので、今ひとつ買う気になれない。

 ティーポットは、注ぐところがなめらかな曲線を描いていて注ぎやすく、適度な丸みがあるカタチが基本。やはり、モノのカタチにはワケがあるのだなあと、しみじみ思う。

 以前、イギリス製で正にティーポットの基本のカタチを守ったようなオーソドックスなものが、雑貨屋などでよく売られていたのだけれど、最近見かけなくなった。なぜだろう? 値段も庶民的、ぽてっとした陶器でいい感じだったのに。

 今のところ、カップ、ミルクジャグ、プレート、ポットと、ブランドは全部バラバラ。なので、シンプルなデザインなら、どこのメーカーのでもよいから、適度に大きくて、おいしく煎れられそうなティーポットはないものか?と思っている。
 できれば、料理研究家の有元葉子さんが使っているような、ジノリの業務用の真っ白、 なんていうのが一番理想なのだが(カップはジノリを使っているし)、残念ながら日本では販売されていない。

 これだけモノが溢れているのに、いざ探すと、ほしいものがないというこの不思議。

*モノのカタチシリーズ、次回に続く。

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2006年7月19日 (水)

結婚できない男――ほっといてください。

 阿部寛主演のドラマ結婚できない男 が、面白過ぎる!
 仕事の帰り、総武線の三鷹方面行きを待つホームの定位置があるのだけれど、私が立つちょうど目の前に、このドラマの宣伝のパネルがあったのだ。
 阿部寛の顔のアップだけのシンプルなデザイン。そして、小さくサブタイトルがこう入っていた。

 ほっといてください。

 なんか、この「ほっといてください」が、私の中でやけにウケてしまい、これは絶対見なくちゃと思い、初回から見ている。

 阿部寛が演じる主人公の独身40男、信介の職業は建築家。
 ナルシストで、他人のことと、他人からの視線が気になって仕方ないくせに、虚勢を張って気取っている。
 口が悪く、コミュニケーションの取り方が下手。だけど、それは決して自分が悪いとは思わず、相手の方がバカだと思う。
 うーーむ。いるんだよね、何かと他人をコキ下ろす男の人。
 私は今までの人生で、いっぱい見てきたぞーと思う。
 で、ひとりで旨いもんを喰い、ひとりで高級ステレオで大音量のクラシック音楽を堪能し、聴く時は指揮者の真似しちゃうし(笑)、ひとりで広いきれいなマンションに住み、フランク・ロイド・ライトの照明なんてあって。で、空気が澱むからと他人を部屋に招くことは嫌う。
「独身なら稼いだ金は全部自分のもんだ。結婚なんかすれば女房と子どもに食いつぶされるだけだ」
 そんなことを言って、既婚者をバカにし、自分は独身貴族を気取っている。
 そう、彼はまさに貴族なのだ(笑)。
 だけど、その貴族っぷりが、第三者から見るとすんごく滑稽なのだ。
「あんな人と結婚したいと思う女の人、いますかねえ」
「いないわよねえ……」
 などと女同士のお喋りのネタにされている。

 結婚というものは、いつも女性に沿って語られがちだったけど、ようやく男性への視点も出てきたかという感じで、なんだか小気味のよいドラマだ。

Img_0292 
←ひとりで「人生ゲーム」(それも1968年の復刻版)に興じる信介、曰く……「必ず結婚しなきゃいけないのが、このゲームの欠点だな……」

 そう、現実でも、やれ非婚だ、少子化社会だと騒がれ、何かと女が悪い、女のわがままだ、みたいな言われ方をされがちだけれど、それは本当は30代、40代の男性が腹を括って女性と生活を分かち合おうとしないからじゃないかと思う。
 特に40代の男性はかつてバブルの恩恵も受け、不景気になったとはいえ、その後、よほど人生を踏み外しでもしない限り、今の若い人たちと比べたら、相当リッチなはずだ。
 車やオーディオを部屋のメインにもってきた、スタイリッシュな建築家住宅に住むシングル男性――そんな雑誌の記事を本当に最近よく見かけるのだ。

 ドラマのなかでも信介は、「ひとりでお金溜め込んで、どーすんですか?」なんて言われている。まあ、個人住宅の設計なんて、本当にそれほど儲からないのは事実。
 私は、個人住宅を設計する建築家の方に何人か取材したことがあるから、よくわかる。設計料は施工料の10数パーセントくらいだけど、それに費やす時間とエネルギーは相当なもの。相手が個人だから、そう、ドラマにもあったように、常に「あと100万、安くならないでしょうか……」などと言ってくる施主とのせめぎ合いなのだ。その辺の建築家事情も結構きちんと描かれているのも好感が持てる。家を建てたい人に建築家を紹介する、建築プロデューサー的な仕事も最近は実際に増えているし(ドラマでは高島礼子がこの役で、これもなかなかはまっている)。
 話が逸れたが、いくらそれほど儲からないとはいえ、ドラマのなかの信介は自分にしかお金使わないわけだから、自由に使えるお金、可処分所得というやつは多いに違いない。
 
 ま、それはさておき。
 このドラマの初回、気取りやの信介が腸閉塞か何かで下血して、病院へ運ばれるシーンがあった。女医を演じる夏川結衣(早坂先生)が、「診察するから、ズボンを下ろしてください」と言っても、彼のプライドが邪魔をし、それを嫌がる(病人のくせに!)。
 押し問答を繰り広げ、早坂先生がたまりかねて「私は医者ですよ、いい加減にしなさいっ!」と叱り飛ばしながら、彼のズボンを引きずり下ろす。
 そこで、カメラが切り替わると思いきや、ズボンを脱がされ、丸見えになったお尻のシーンが……かなり長い間、映し出されていた!
 痛さと恥ずかしさ?故か、診察台に横たわりながら涙を流す信介。
 同じ勤務先のMさん(30代前半独身・女)は、うとうとしながら見ていたらしいけれど、このシーンで、
「わ、阿部ちゃんのお尻!」
 と一気に目が覚めたそうだ(爆)。
 なんというか、そんな捨て身の阿部寛の演技には、大いに拍手したい。
 コミカルな役は演じられても、お尻まで晒せる俳優は彼をおいて他にいないだろう。
 私的には、ジダンの頭突きより、衝撃度の高いシーンであった(比べるなって?笑)。

 そして、阿部寛がお尻見せた!という事実以上に、このシーンは、象徴的な感じがするのだ。
 上げ底された男の虚飾や虚勢を脱がしてやろう、というようなね。
――「お尻」を連発しちゃいました。失礼!――

 というわけで、このドラマの阿部寛は、『恋愛小説家』とか『恋愛適齢期』のジャック・ニコルソンを彷彿させるところもある、と言ったら、褒め過ぎか?
 人をイラつかせる厭味な役を、本当は二枚目でいい男の阿部寛が余裕たっぷりに演じているのがいい(あの長身を、やや前のめり気味にして歩く演技の細かさなど素晴らしい)。
 やな男なんだけど、それこそ、先の映画のジャック・ニコルソンのように、変わっていく可能性はありそう。
 「本当はほっとかれるのは寂しい」という展開になるのかな?
 設計の仕方なんかに、奥底は悪い人じゃない、というのは見えているのだけれど。
 でも、あまり突然いい人になってしまったら、面白くないかも知れない。

 建築事務所の若いアシスタント役は、塚本高史クン。
 ねっとりとした演技をしている阿部寛とは対照的に、いかにも今時の男の子という感じで、軽妙な実にいい味を出しています。
 ちゃっかりしているOL役の国仲涼子も楽しいし、女医役の夏川結衣もしっかりしているけれど、可愛らしさも失わない大人の女性を演じていて、いい感じ。

 というわけで、今シーズンイチオシのドラマは、『結婚できない男』。
 これは見ないと、損しますよ!

 

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2006年7月 8日 (土)

ゲド戦記――ファンタジーの力

 スタジオジブリの映画『ゲド戦記』が、もうじき公開される。
 不覚にも私はこのゲド・シリーズ をまったく読んでおらず、ジブリの映画を先に見てしまうとそのイメージが先行してしまうと思い、慌ててル=グウィンの原作を読んでみた(ジブリの映画の評価は賛否両論といった感じらしいけれど、原作を読むきっかけを作ってくれたということで、感謝)。

 Gedo_1と言っても読んだのは、まだ第1巻目『ゲド戦記Ⅰ――影との戦い』 (おとなには、小さい判のソフトカバー版 がおすすめ) だけ(全6巻)。それでも、この物語のもつ力はよくわかったし、凄く感動した。
 スケールが大きく、魔法使いの修業をしている主人公ゲドの心の葛藤が丹念に描かれており、読み応えたっぷり。おとなでも……いや、おとなにこそ読んでほしい本。
 こういうのを食わず嫌いというのだなと思った。私はどちらかというと、壮大な架空世界のファンタジーより、現実ともう少し地続きな感じのファンタジーの方が好きなので(『モモ』とか『トムは真夜中の庭で』など)、ゲドはなんとなく避けていたのだ。でも、『指輪物語』の映画も感動したので、こういった、もうひとつの架空世界を構築しているハイファンタジーも読んでもいいかも……と思い始めていたところだった。
 『指輪物語』などの流れを組むファンタジーだし、ハリー・ポッターだって、ゲドがなかったら、生まれてこなかっただろう。魔法使いの修業のために、魔法学院へ入学する、というハリポタの設定はゲドから来ているのだ。
 そして、ストーリー自体も凄いのだけれど、例えば具体的に、私がノックアウトされたのは、こんな表現。

――今、そなたがこの島を出れば、そなたが放ったものはたちまちのうちにそなたを見つけ出して、そなたの中に入りこみ、そなたをとりこにしてしまおうぞ。そうなれば、そなたはあやつり人形にしかすぎなくなる。この地上の光の中にそなたが放ったあの邪悪な影は、そなたを思いのままに動かすようになる。
P105 影を放つ

 これって、最近私がいろいろ読んで勉強しているモラル・ハラスメントについてのことと、ぴったり合致するではないか。ちょっと鳥肌が立った。
 ゲドが出版されたのは、1968年(日本では1976年に初版発行)。なんと、40年近くも前に、すでに「答え」はそこにあったのだ。しかし、そこに到達するまでに、なんと長い時間がかかったことか。あるいは、さまざまな経験を経て、曲がりなりにもおとなになった今だからこそ、それを「答え」と感じられるのか。

 というわけで、先月6月24日、『ゲド戦記』の翻訳者であり、児童文学研究者の清水眞砂子さんの講演会『ゲド戦記の世界』(紀伊國屋サザンシアター)を聞きに行った。清水さんのお話にまた感動。
 かいつまんで、その一部を。

――もし、ル=グウィンがこのゲドのような世界を写実的な文で描こうとしたら、それは膨大なものになるだろう。でも、ファンタジーには時代考証もいらない、現実に足を引っ張られないから、ものごとの原理的・哲学的な問いかけができる。根源気的なものが表現できる。
 だから、ファンタジーは、現実を映し出す鏡(隠喩)。私たちの身の回りにたくさん起きていること。実は、写実的なのだ。

 そう、私が前述で感じたことが、正にそれだと思う!

――意味からこぼれ出る膨大な豊かさ
 物語は、意味を追い求めると痩せ細る。意味以外の、細部こそが大切。物語を読む時は、意味だけを読むのではない。意味からこぼれるものが、物語を豊にしてくれる

 これは、作家の保坂和志さんも、ストーリー以外の細部や情景描写こそが大切、とよく言っている。例えば、ゲドの友人、カラスノエンドウの描写などがそれに当たる。 
 私も、カラスノエンドウは大好き。『指輪物語』の庭師サムと似た役割を果たす登場人物。戦いのシーンだけでなく、こういう描写があると、ほっとする。

 また、英語の作品を日本語に翻訳するということが、どれほど繊細で危うい作業か、ということもよくわかった。
 
――ゲドがテナーという女性と結婚し、家庭をもってからの話。食事の後片付けをしたがらない息子にテナーは「ゲドだって食器を運んでくれるのよ」と翻訳してから、はっとして慌てて、「ゲドも食器を運ぶのよ」に訳し直した。
 運んでくれる。○○してくれる。○○してくれない。
 この表現というのは、日本語独特で、これに相当する英語の表現というのはない。
 「運んでくれるのよ」の一言で、ル=グウィンの世界を壊してしまう。
 実はル=グウィンは、アメリカのフェミニズムの騎士ともいうべき人で、運動を担ってきた人なのだ。

 意外な事実。というより、やはりそういった思想がベースになっているのだと、なんだか凄く納得。ル=グウィンは子どももいたので、フェミニズム運動をしながら、家庭を築くことへの後ろめたさを抱き、子どもをもつことが悪いような気がしていたそうだ(そういう時代だったんですよねえ)。
 テナーという女性は、生活べったりではなく、男性論理を一度くぐり抜け、それからまた生活へくぐり抜けてきた人物で、そういう言葉を喋っていると清水さんは言う。ル=グゥインにそのまま重なるかも知れない。そういう成熟したフェミニズムを日本語でどう表現すべきか、ということに心を砕いたそうだ。

 やはり、ふわーっと生きて、想像の翼を広げれば、ファンタジーが書けるってもんではないんだなあと思った。当たり前だけど。

 清水さんは、ゲドを翻訳するにあたり、高校の教師の職も退き、翻訳だけに専念していたのでとても貧乏で大変だったけれど、ゲドの物語のなかで生きている、この世界を生きていると感じて、幸せだったそうだ。

 それから、子どもに最初に覚えてほしい言葉は、「Noと言えること」と言っていた。我慢と辛抱は、違う、と。これも、子どもだけでなく、女性に当てはめてもまったくいいと思う!
 奈良の高校生が自宅を放火し、義母ときょうだいを死なせてしまった事件にも触れ、なぜ彼はあそこまで我慢してしまったのか、我慢しなければよかったのに……としみじみと言っていた。いやと言えたら、どんなに解放されるか。
 
 親に虐待される子ども、夫に肉体的暴力やモラル・ハラスメントを受ける女性の危険性はそこだ。我慢して我慢して、それが臨界点に達した時、被害者が加害者に転じること。相手を殺してしまい、逆に加害者になってしまうことだ。「元加害者」に、「元被害者」は、完全に人生を奪われてしまう。

 さて、『ゲド戦記Ⅰ――影との戦い』を読んでいて、後半から、もしかしてこの不吉な影の正体は……とわかり始めて、ドキドキしながら読んだら、果たしてそのとおりだった。
 ル=グウィンは東洋思想も学んだ人なので、善×悪をはっきり分けて描き、対立させる書き方はしない。そういうところが、日本でとても人気のある理由ではないか、と清水さんも言っていた。 
 また、ゲドのもうひとつの大きなテーマは「真の名前」ということ。言葉がもつ力を考えさせられる。これもまた、日本の神道における「言霊」などを連想させる。
 とにかく、全巻読破しなくては!
 ちなみに、ジブリのアニメは、3巻めがメインになっており、ゲドの息子アレンを主人公として描いている。物語の前後関係を把握するためには、やはり原作を読んでからのほうが、私は楽しめそうだ(あ、あと、アレンの吹き替えは、岡田准一クンです)。

――いったん石のとりことなれば、相手は影を城内に入れるだろう。人間よりも魔性のもののほうが奴隷としてはいいのだから。あの石に触れ、話しかけていたら、完全にこちらの負けだった。だが、影がこちらに追いつくことができなかったように、あの石もついにこちらを誘惑できなかった。ゲドはほとんど敵方の掌中にあったが、しかし、完全とまではいっていなかった。彼は自分をすっかりゆだねてしまってはいなかったからである。他者に己をゆだねない人間を支配するのは悪にとってひどくやっかいなことだ。
P183 ハヤブサは飛ぶ

――もしも、このまま、先へ先へと逃げて行けば、どこへいっても危険と災いがそなたを待ち受けておるじゃろう。そなたを駆り立てているのはむこうじゃからの。今までは、むこうがそなたの行く道を決めてきた。だが、これからはそなたが決めなくてはならぬ。そなたを追ってきたものを、今度はそなたが追うのじゃ。そなたを追ってきた狩人はそなたが狩らねばならん。
P195 ハヤブサは飛ぶ

 ファンタジーは現実の隠喩、というのがよくわかる。
 巷に溢れる心理学や処世術やらの本のなかで、40年後も読まれ続けるものは何冊あるだろう? ファンタジーには、人間の根源的なものが映し出されており、色褪せることがない。それがファンタジーや文学だけに限らず、芸術の力であり役割なのかも。

 嬉しいこぼれ話もあり。ル=グウィンは、トールキンの『指輪物語』の老賢者ガンダルフに思いを馳せ、彼の少年時代はどんなふうだったのだろう?と想像したところから、ゲドが生まれたのだそうだ。
 つまり、ゲドは、ガンダルフの少年期・青年期の姿なのだ!
 と、こういう話には本当にワクワクする。
 やはり、世界はつながっている。

 ガンダルフは私にとっても人生の師。この言葉も、私の人生にぴったりそのまま当てはまる。

フロド(ホビット族)
「指輪さえ、もらわなければ、こんな旅に出ることもなかったのに.……」
ガンダルフ(老賢者)
「それがおまえに与えられた試練なのだ。そんなことより、今何をすべきかを考えることが大切だ」
――映画『ロード・オブ・ザ・リング』より 

 で、最近になって知ったことだが、あの奈良の放火事件の高校生は、父親に医者になることを強要され暴力も振るわれていたらしい。胸の痛む事件だ。典型的なACである。そして、ハリー・ポッターの大ファンなんだとか。ああ、ハリポタじゃなくて、ゲドを読め、と言いたい。
 ゲドを読んでいたら……もしかしたら、あんな事件を起こさずに済んだかも知れないのに。私は半ば本気でそう思っている。つまり、ゲドとはそういう物語なのだ(ハリポタは楽しいけど、子どもの好きな柔らかくて甘いお菓子しか入ってない感じなんだもの。固いものを消化できなくなってしまう)。

――すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。ゲドはそのような人間になったのだ。今後ゲドは、生を全うするためにのみ己の生を生き、破滅や苦しみ、憎しみや暗黒なるものにもはやその生を差し出すことはないだろう。
P269 世界の果てへ

 この引用部分を入力していて、自分にも引きつけて考え、あらためてまたびっくり。
 つい昨夜、友人と電話で話していたことと、まったく同じことだからだ。
 世界はつながっている?!
 この話の内容や経緯は、いつかまた別の機会に。

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