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2006年6月に作成された記事

2006年6月25日 (日)

紫陽花、紅茶、そしてサッカー

 

Img_0265 ふと気づいたら、6月も最後の週ではありませんか。梅雨の時期は、今ひとつ調子が出ないけれど、この季節ならではの楽しみは、紫陽花。
 以前派遣先でお世話になったT女史――と、働いていた私たちは彼女のことをよくこう呼んでいたので――から、「実家の庭の紫陽花をお分けしますので、ぜひ会いましょうという」メールをいただいた。紫陽花、いいけど、忙しいのだよなあ……と思いつつも、先週、四谷のPAULにて会った。ピンク色になった紫陽花と墨田の花火という白いガクアジサイをたっぷりもらった(最近、お誘いのメールは、女性からばかりです/笑)。
 うちに戻って束をほぐしてみると、何枝もあったので小分けにして、白い水差しやピンクのラベルのレモネードの空き瓶などに差し、テーブルの上、キッチン、トイレとあちこちに飾ってみる。
 こんなにたくさん部屋中に花を飾ることはないので、確かになんだかいい感じ。庭から直に切ったものなので、元気だし。
 梅雨のどんより気分が、ちょっぴり、華やいだ。Img_0270_1

自然にちょっと触れただけで、
全世界を身近に感じる。
――ウィリアム・シエクスピア
『イギリス・言葉の花束 人生はまだ開かない薔薇の希望』出口保夫編より

 

 それから、今飲んでいるのは、Janat(ジャンナッツ)というフランスのブランドの紅茶。
 Img_0276このジャンナッツブレンドは、「厳選されたダージリンの紅茶にグレープフルーツをはじめとするシトラス系のフルーツとローズで香りをつけました」というもの。

←2匹の猫が寄り添うマーク付きの缶も可愛い

 シトラス系と薔薇という組み合わせは、おいしいかまずいか賭けだなあと思い、でも試しにと飲んでみたら、大当たり! ダージリンとシトロン系のすっきり とした味わいのなかに、薔薇の甘味がふわりと広がる。なんとも不思議な紅茶。意外な組み合わせなのに、違和感がない。さすが、フレグランスの国、フランス の紅茶。香りの付け方が独特で繊細(カルディエという輸入食品店にて購入)。
Img_0272_1 清涼感と甘さ両方あるので、今の微妙な季節にも合うし、ほんとにおいしーい! あと、ミルクなしで十分おいしいというのも嬉しい(ミルクたっぷり入れると、太るんだな、これが)。

←薔薇の花びらがそのまま入っている茶葉



よい紅茶とは、よい仲間をつくり、
気分を壮快にし、心をひらき、
会話から緊張を取り去り、
人びととの交際にあって、至福の時間を高めてくれる。
――アーサー・ブルック
『イギリス・言葉の花束 人生はまだ開かない薔薇の希望』出口保夫編より

 そして、ワールドカップに全然追いつけない私……録画が溜まる一方で焦っている。
 今日はさっきやっとイングランド×スウェーデン戦の2対2の引き分けを見終わったところ(いつの試合だよ)。ジョー・コールのシュートが素晴らしかった! イングランドはのっぽのクラウチがお気に入りなので、応援している。イングランドが勝つと思いきや、後半、スウェーデンの怒涛の攻撃で、ぎりぎりで同点に。スウェーデンってあまりサッカーのイメージがなかったけど、わりかし強いんですね。
 日本代表については……きっと1000万人くらいの日本人がああだこうだと言っていそうなので、私は黙って通り過ぎようっと。
 ただ、試合終了後、グラウンドから立ち上がれない中田の、なんとも哀切きわまりない姿……が目に焼きついた。

 しかし、日本は消えたけど、決勝戦はこれから。
 「強くて美しい男」たちを当分観賞できる(!)日々が続くと思うと、この鬱陶しい梅雨もなんとか乗り切れそうな気分。

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2006年6月11日 (日)

のりたまと煙突

 Noritma星野博美さんののりたまと煙突 という本を読んだ。『転がる香港に苔は生えない』で大宅賞を受賞したノンフィクションライター&写真家。
 『銭湯の女神』というエッセイ集がよかったので読んでみたのだけれど、この『のりたまと煙突』も、著者のことを他人とは思えないくらいだった。
 私よりちょっと下だけれど、ほぼ同世代、暮らしている地域もほぼ同じ(西荻窪~武蔵野界隈)、出てくる場所や店名もだいたいわかる。
 若くはないのだけれど、オバサン的に居直ることもできず、この今の日本にそこはかとなく違和感を抱いて生きている、というのも同じ。

 今の若者は身体の末端に力が入っていない、ファミレスで「以上でご注文はお揃いでしょうか?」の質問に、それはあなたが一番よくご存じでしょう、と突っ込みを入れたくなるとか(ファミレスを『質問の多い料理店』と呼んでいるのには笑った)とか、共感してしまうところがたくさん。
 中央線の事故の多さを嘆き、咄嗟に人身事故があればどういう経路なら目的地に一刻も早く辿り着けるか、ということを考える自分。そして、あとになって「人身事故」のことに思いを馳せることもない自分に、おぞましさを感じたり。
 また、クリスマスをどうしても素直に祝う気分になれなかったり。
 「クリスマスを共に祝う相手がいない人もいる。それを忘れたくない。」
 と、そんなふうに思ってしまう人なのだ。ヨーロッパへ行った時、クリスマスにひとりでいる人々の寂しく厳しい姿が忘れらないそうだ。
 それでいて、狭いアパート暮らしなのに、居着いてしまった野良猫を次々と飼い始め、海外へ行く時は親に預けるはめになり、自分で面倒も見切れないのに何をやっているのだろうと反省する(タイトルの『のりたま』は、猫の名前)。
 同世代の友人から結婚祝いや出産祝いが届くたびに、家庭や子どもを持ちたくてもそれが叶わない人もいるのだから(著者が自分のことを言っているわけではないが)、そういう人への配慮を忘れないでいただきたい、と思ったり。
 近所の事故の多い道端に、新しい花束が置かれているたびに、はっとして立ち止まり、死者のことを考えたり。
 
 いろんなことに目をつぶって、さっさと通り過ぎてしまえば楽なのに、そうできない。
 不器用にしか生きられない。
 そして、世の中に疑問を投げかけ、怒ったり嘆いたりしながらも、常に、じゃあ自分はどうなんだ?ということに戻ってくる。
 これができる人って、案外と少ない。

 大学卒業後、バブル期に入社した商社も1年であっさりやめて、組織に縛られるのを嫌い、写真家のアシスタントやフリーランスでサバイバルしてきた彼女。
 根無し草のようでありながら、ぶれないというか、その視線が確かなのは、下町で父親が工場を営んでいたという、彼女の家庭環境にあるかも知れない。大勢の従業員や祖父母や親戚に囲まれていた子ども時代。その頃のことも丁寧に綴ってあり、まだ時代が昭和だった頃の懐かしさを感じる。

 すべてエッセイなのだけれど、展開が鮮やかで、まるで一篇の短篇を読んでいるような印象深いものがいくつもあった。
 そして、どんな人生にも平等にやってくるものは「死」であり、残されるのは「思い出」だけと、最後に結んであった。
 辛辣でありながら、暖かく、そして深い本だった。

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2006年6月 4日 (日)

コーラス

 

 Img_02502続いて、昨年(2005年)公開された映画のなかで、ベスト1だった作品も、以前のブログから再び掲載。コーラス です。

 『コーラス』は フランス、孤児、少年合唱――と、私の心の琴線に触れまくりの映画。私は、ロックバンドやテクノを好きになるずーっと前、少年合唱団にはまっていたことがある。何を隠そう、中学生の頃、ウィーン少年合唱団の追っかけのようなことを、一時やっていたことがあるくらい(ほんとに、ほんの一時)。その後、声の質感的にイギリスの聖歌隊の方が好きになって、20代の頃イギリスへ旅行したのは、彼らの音楽を現地で聴くのも目的のひとつであったりした(CDもロック以上にどっさり持っている)。Img_02462
 さて、映画は、悪ガキたちを、新しく赴任してきた教師が合唱で皆をひとつにまとめあげ、少年たちが歌うことによって成長し、変化していくというお話。舞台は、不良少年を更生させる寄宿舎者付きの学校で、1949年のこと。それだけ言うと、ありがちな話なのだが、その感動はありがちなものではなかった。

  

Img_02482_1 いろんなものが鬱積して疲れかかっている心と身体に、栄養を送り込んもらったような、自分のなかで、ひしゃげていた何かが、真っ直ぐに治されたような感じ。うーん、言葉を連ねても、映画の魅力に迫れないが......。

 ボーイソプラノのソロを歌うピエール・モランジュ役のジャン=バティスト・モニエ君は、本当にフランスの「サン・マルク少年少女合唱団」のソリストだそうで、「天はニ物を与えず」と言うけれど、彼の場合は、与えられてしまったんだなあと思う。ほんとに美少年! その容姿といい、歌声といい、演技といい、天はニ物どころか、三物を与えられたのであろう。暗い陰りのある表情から、喜びに満ち溢れた笑顔まで、びっくりするくらいの表現力で、あの年齢であそこまで眼で語れるというのは、どういうことなんでしょうか??? 演技の経験者でもなかったのに。Img_02452
 ただ、美しすぎる少年は、成人するとびっくりするくらい変わる可能性もあるので、美しすぎると先が心配だったりもする。欧米人は、おとなになると、骨格とか凄く変わってしまうから。おとなへの階段をいい具合に上がってくれるのを、願うばかりだ。
Img_02472
 というわけで、モニエ君は相当よかったのだが、実は私の心をもっと強力に鷲掴みにしたのが小さなペピノ。両親が戦争で死んじゃったのも理解できず、土曜になると、いや土曜以外の日も、校門の内側に立ってお父さんが来るのをじっと待ち続けているなんて、その設定はあんまりだ。

 でもって、自分がいつからこの学校へ来たのかもわからなくなっちゃってるし、歌も歌えないし、上級生には寝室から追い出されるし。もう、映画のなかのペピノをはっしと抱きしめて連れて帰りたかった。暖かいスープとパンケーキをつくって食べさせたいような......ふだん、私は自分のことばかり考えている傲慢な人間で、実際に子どもを生み育てたこともないし、母性本能とか、そーゆうものは著しく欠落している人間ではないかと常々思っているのだけれど、自分にもそういうものが欠片くらいはあるのかも――なんてことを思ってしまった。映画なのにねえ。とにかく、ペピノを見ていたら、母性本能をくすぐられまくりというか(笑)。そう思ったのは、決して私だけではないと思うのだけれど。それほど、ペピノ役の子(マクサImg_02442ス・ペラン)は、子ども本来の魅力に満ちていたんだと思う。多分、幼いマクサス君は、どこまでペピノ役をやっていて、どこまでが素の自分のままなのか、まだ線引きが曖昧で、それが幸いしたのではないだろうか(ちなみに、この映画の出演者の実の息子)。

 ラストシーン――教師と子どもたちの別れは、切なかったけれど、あの子どもたちの手と紙飛行機と歌声にはやられた。号泣というほどではないけれど、ほろりと涙。そうして、悪者は罰せられ、誠実で実直な者は然るべき道を歩み、才能のある子どもには未来が用意され、そして愛に飢えている子どもには愛が与えられる。不条理なことばかりの世の中だから、たとえ映画でも、こういう世界観を提示されると、生きる力が湧いてくるような気がする。
 緑の木漏れ日が輝く、あの並木道は、彼らの未来を祝福しているようだった。

 モニエ君のボーイソプラノの歌声も、じき失われてしまうのだろう。そんな一瞬の輝きも、映画には閉じ込められている。あの映画の製作の時期に、彼の歌声が存在していたこと、そうして彼が発掘されたこと、ペピノことマクサス君の存在そのもの、すべてが奇跡のようなつながりのなかで生まれたのだ。ほかの生徒役の素人の子どもたちも、皆、よかった。
 映画に限らず、創作というものには、そんなふうに天使が訪れることが、ごく稀にあるのかも知れない。
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ブロークバック・マウンテン

Bm 今年もはや6月。折り返し地点に来てしまった。そこで、今年前半、劇場で観た映画のベスト1を振り返ってみることに(劇場ではあまり観ていないのだけれど)。
 やはりダントツで『ブロークバック・マウンテン』。
 60年代のカウボーイの話、しかもゲイ同士の愛の物語……という、観るまでは想像もつかなかった世界なのに、見事にやられた。
 ゲイと言えば、イギリスのモーリス的苦悩の世界であるとか、ロンドンやNYのファッショナブルな人たちというイメージがつい先行してしまうのだけれど(それもある種の偏見だよな)、これはなんとカウボーイである。いやいや、そうではなかった、『真夜中のカウボーイ』という名作があったっけ!

 それはさておき、この映画を観て、カウボーイとは何なのか?ということについても、初めてちゃんと知ることになった。広大な西部でテンガロン・ハットを被って、馬に乗ってなんかする人……くらいにしか考えたことがなかった。要は、地主などに雇われて家畜の世話をしたりする請負人なんですね。本当に下働き。それもシーズン中は山にこもりきりでテントを張って生活するという、かなりなハードワーク。そんな閉ざされた状況で(広大な自然の真っただ中にふたりきり!)、男同士、汗をかきつつ働き、やがて愛し合うようになる……というストーリーが、観ている方も違和感なく、感情移入できるのだ。

 ゲイが許される時代や土地柄ではなく、それゆえの悲恋なのだけれど、この「愛の困難さ」は、男女に置き換えても十分通用すると思うし、そこにこの映画の普遍性のようなものがあると思う。

 さて、この主人公のふたりジャック(ジェイク・ギレンホール)とイニス(ヒース・レジャー)。ジャックの方が、女性的な内面性をもっているように感じられた。ジャックは世間への顔よりも、自分の本能や内面の真実に率直に向き合い、それに沿って生きたいと望み、イニスにもそれを求めるが、イニスは拒絶する。
 イニスは、世間体(ジャックを愛しているのに、表向きには普通の男でありたい)が大事なのだ。いや、世間体というより、自分と向き合うのが怖いのだ。彼は、ジャックと愛を交わしたのは一時の迷いだと自分自身に言い聞かせ人並みに結婚し、子どもをもうけていた。だから、自分にはもう家族がいるんだとか、俺には責任があるんだとか、仕事が忙しいんだとかなんだとか、何かと理由をつくり逃げてしまう。でも、人目を忍んで、時折彼とすごす山のなかでの日々の輝かしさは、抗いようがない。そんなふうに行きつ戻りつを繰り返しながら、ジャックも資産家の娘と結婚してしまい、どんどん俗っぽくなっていく。
 ふたりとも年を重ねてゆくことの重みや深さはなく、ただ老け込み俗っぽくなっていくだけ、という描き方が痛々しくリアルに迫ってきた。ブロークバック・マウンテンの頃の、あのきらめくような眼の輝きはなくしてしまった(ジャックはまるでバンビのようなつぶらな瞳だったのに、口ひげを生やし腹の出たおっさんになってしまった!)。彼らも妻たちも、年を重なれば重ねるほど、輝きを失ってゆく。
 イニスは、ジャックと向き合うことから逃げ、言い訳に使っていた家族への責任も、結局果たせない。カウボーイという仕事にしがみつくばかりで妻を幸せにすることはできず、最終的には離婚してしまい、すべて――家族もジャックも――を失ってから、失ったものの大きさに気づくのである。

 ああ、なんて愚かな、そして悲しいことだろう! イニスは、男性性に縛られ抑圧された被害者なのかも知れないが……。自分の感情にについてあまりに無自覚で、感情表現が未熟だ。自分でどうしていいかわからないと暴力的になる……。そんなジャックとの関係性、殴りながら求めるというような屈折したありようをイニス役のヒース・レジャーは巧みに演じていた。
 ちょっとネタバレ――一方、ジャックの方も無残で呆気ない形で命を落とし、父親から「あの子は、口ばかりで何ひとつ実現させることができなかった」と言われる。これもまた残酷なシーンで、悲しかった。
 求め合ってもすれ違ってしまうという関係性の困難さ、これは本当に、時代に関係なく男女間でも大いにあることだと思う。

 ふたりを取り囲む雄大な自然の映像も素晴らしかった。また、都会的な映画にありがちな、恋だけにウツツを抜かし、この人たち、いつ仕事してんの?みたいなところはなく、お金や仕事にいつも追われ、ぎりぎりな暮らしであるところもきっちり描いていた。だからこそ、ふたりだけの時間やかつての「ブロークバック・マウンテン」が輝いて見えるのだ。
 映像、脚本、キャスティングとすべて素晴らしく、監督アン・リーの力量だと思う。
 台湾人という外国人だからこそ、これほどまでにアメリカの男たちの姿を浮き彫りにできたのかも知れない。

 ところで、映画評論家の町山智浩氏は、この映画について「男はみんなゲイである」と評論しています。
 詳しくはこちらを――ゲイ西部劇『ブロークバック・マウンテン』。男はみんなゲイである
「男はみんなゲイである」――うーん、名言かも(笑)。深い話を避けることのできる男同士の方が安らげるんじゃないの?というのは、私も常々思っていたけど、やはりそうらしいですね(笑)。
 でもって、女とか生活することとか、そんな「面倒なこと」に向き合うより、お酒とかサッカーとか車とかバイクとか仕事とかに入れ込んで「楽しんでいたい」のだろうなあ……。

 と、話が逸れたが 久々に激しく心を揺さぶられた映画だった。

(ちなみに、これを観たのは新宿武蔵野館、3月のある水曜日、レディースデイの夜……超満員で95%くらい女性のなかにゲイらしきカップルがちらほらという、妙に熱気のあるなかで観ました。ストレートな男性にもぜひ観てもらいたい映画!)

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